じぶんてどうやって小説かいてるのかしら? vol.2
今週のお題「今年やっておきたいこと」
小説を読み書きすることの棚卸、かなああ?
てわけで、
第二弾、です!
「小説」や「物語」を書きたいひと向けの本を並べてみたよ☆
「小説」や「物語」を書きたいひと向けの本を並べてみたよ☆ vol.2
じぶんてどうやって小説かいてるのかしら?
じぶんてどうやって小説よんでるのかしら?
こないだ「下準備」まで書いたんだよね?ていうかもう、ほとんどそこでおはなしってできあがっちゃってるよね
うーん、と、ちょー極論だけど
世界観とキャラとストーリーでもう、あとはいらないってはなしもある
なので今回は、
じぶんが何をしてるのか、またはしてきたのか、ていうのをメモっとこうかな、と
①全力で書く
あのさーこれさー
じぶんのお馬鹿さ加減をばらすことになるので恥ずかしいんだけどw
わたし、コーチとよんで私淑してるかたがいて、そのかたに一年半くらい「あなたは全力で書いてないように思われます」て言われてきて、わたしはいつも「いえ、わたし一生懸命書いてます!」とお返事してきて或るときふと、
「あ!!!!!」て、天啓のように閃いて、あのヘレンケラーの「うぉーたーーーーーー!!!」みたいなw
「ごごごごごめんなさい、はい、わたし、たしかに全力で書いてませんでした、すみません 大汗」てなったことがあるんですが、わたしってほんと、ひとのはなしを聞けていないというか、なんというか・・・ははははは
コーチは「いえ、こちらこそ、わかるようにお伝えできなくてすみません」て謝ってらしたけど、でもこれ、
コーチはわたしに「じぶんでソレを理解する」てことを学んでほしかったんだとおもうのよね?
それはともかく、自分メモなのでここでぶっちゃけると、
それってごくたんじゅんに、「ヤレナイことを頑張ってヤル」てことだった
それ以降、だからわたしは、いつも新しいお話し書くときには何かひとつでも、小さいことでもいいのでチャレンジをしています、じぶんにとってむずかしいこと、やったことのないことに!
たとえば断章形式に挑戦とか、二人称小説を書くとか、一人称で「わたし」を使わないとか・・・ひじょうに些細なことだったりもするんだけど、書きたいおはなしの主題その他と連動する形の何かを(このへんは常に意識して書いてるので!)、そこでヤルことにしています
(まあ、そんなふうにしてやってきてもこのていどのものなんですけどねw それでも、ヤラナイよりはましなのだよ!!! 力説)
②「絵」が見えるまで書かない、基本は(※このやり方に関しては後述)
わたし、ストーリー自体、そのシーンの絵が「見えない状態」では書きません
基本的に「おりてくる系」で「一発書き」です
だからここを堪えるのが大変、でもここはしっかりしたものにしないと言葉との連動で、なにもかもを台無しにするので我慢
あのね、後から手を入れるときはじぶんのなかの言語出力装置がベストの状態でないってときだから、必ずその過誤だか未熟さだか何だかは見抜かれるんですよ、みんなに
ひとの感受性って凄まじいもので、年齢や性別や趣味その他がまるでチガウひとたちでも、ある一定の表現力を維持していないって思われるところはみな、すぐにも気づくんですよね、これが(文章だけでなくて、絵画もそうなのだ実体験として、画廊にいるとこれがよくわかる)
怖いなっておもう
コワイ、とても・・・まるはだかだもの、ほんとに
だから、じぶんで振り切った! ヤリキッタ! て思えないものは表に出さない
もちろん、週一更新だったり文フリへ出す本とかの締め切りがあって、不十分なものを出さないといけないこともあるんだけど(あるよ・・・涙)
でも、でもね、少なくとも「文章」自体でこういう点はナイように努めてます
一文字、一単語の不備や疎かな点で、小説全部を駄目にしてしまうのよね、ていうのはワカルので
残酷なほど、言葉ってこわいんだよね、ほんと・・・どういう語をつかうかで、そのひとの全てが見抜かれる、ていう感じするよね?
こわいこわいこわい!
でも、だからこそ愉しい☆
(悪いとこを書いたけど、イイところも、みなさんに褒めてもらえることはあるのだ! つまりある一定の線を越えるレベルで表現できれば、それらは必ず認めてもらえるっていう体験もちゃんとしているのですv)
③言葉をおびきよせるための伴走メモをとる
うえで書いたように、小説自体について焦って描かないようにしてる
よって、反動で言葉がじぶんの内側に溢れかえって困ったりするので、ガス抜きや、または促しのためにメモをとります
これ、ハイクでずっとやってることなんだけど、来年あたりからここも、見えない場所でやろうとおもっています
出力が弱まる気がするので
辛くとも、ひとりで堪える訓練をする方向で(いきなりやると苦しいから、ならしならし、ねw)
(ここは、「見せ方」とつながる問題なので、そこでどうにかガンバルていうのがひとつ、ある)
④書き方を変える(※後述する、のとこ)
2013年はリライトを覚える、または書き方を変えることについて意識した年でした
わたしは集中型というか、おりてくるものを待つ系なので、てことでコンスタントに書くには身を削るしかなくて・・・これだと心身ともにもちませんwww
よって、書けなくても書く癖をつけるために色々と努力しています
けどまだ、ちゃんとはやれてないorz
でも、一発書きじゃなくて、リライトを覚えることで過去作品を生き返らせることが可能になるので、いま頑張ってるところです
(余談ながら、ウエブニタスさんへ寄稿した「増田愛音の黒歴史ダイアリー」はまさに、このリライト練習成果だったりします 詳細はこちら→
8月18日(日)コミティア105、ウエブニタスさん【し13a】の新刊『概念迷路』に寄稿&本を委託させてもらってます! - がらくた銀河
)
⑤古典作品へのオマージュを忘れない(こっそりいうと「ライヴァルになりたい!」)、または本(小説)について小説を書くひとでありたい
ゴンブローヴィッチ大好きなんですよ、わたし
「初期短編から『王女イヴォナ』を経て、『フェルディドゥルケ』まで、それらはプラトンからルキアノスまでの対話文学、ダンテ、ラブレー、そしてコンラッ ド、ジャリ、ジャック・ロンドン、H・G・ウエルズ、これらすべて「古典」に対する個人的「否」――私ならこう書く――なのであった」
「ゴンブローヴィッチが苛立ったのは、いわゆる「古典作家」の挑発を真っ向から受け止める代わりに、ひたすらその名声にすがり、ただ彼らを崇拝するあまり、決して彼らを「同時代人」とはみなさない「二流」の「同時代人」の存在であった。
挑発に対する鈍感さ。現代世界を冒しているこの持病に対して、はたしてゴンブローヴィッチの挑発は、多少なりとも、特効薬たりうるだろうか。いまとなって は、これまた「古典作家」のひとりにすぎないゴンブローヴィッチではあるが、その挑発に対して鈍感であってはならない。ゴンブローヴィッチを「同時代人」 とみなしうるかどうかに、私たちの治外法権的精神の健康はかかっている」
野望として、こういう気持ちは、あります!
だって、だって、それが恩返しじゃん!!! ていう・・・
わたし、「古典よむ部」発起人なんですよねw なんもしてませんけどwww
「古典よむ部」つくるぞ作るぞ、つくるぞ〜!
「古典よむ部」ガイドラインです!
もしよかったらご参加くださいませ☆
古典よむ部 - はてなハイク
古典よむ部 - はてなスペース
古典の換骨奪胎とか、ちょーカッコイイよねーって思いながら書いてますw
あと、小説や物語について言及してる小説を量産し続けるぞ、ておもってる
だって、好きなんだもんv
おはなしのなかに、おはなしがでてくるのがすきなのだ、うん☆
そんなかんじ???
あ、
それから今日は番外として、これを最後に引用しておきたい
どんな共同体にしろ、外側の空間の彼方から、大気圏の彼方から、生誕の上流で放たれる徴としての社会的認知を求めている。つまり帰属の徴を求めているのだ。熊、雲雀、女、同性愛者、病人、乞食、放浪者、音楽家、画家、作家、聖人たちは、政治権力に通報したりしない。
— キニャール (@PQuignard_Bot) 2013, 9月 27
中国では書を読むことが文明の基礎をなしている。誰もが読むのをやめたら、文学はかえって高く評価されて戻ってくるだろう。この経験は隠者の住まいを再建するだろう。それほど、この経験に匹敵する人間の経験はほかにない。これほど脱社会的な経験はない。
— キニャール (@PQuignard_Bot) 2013, 9月 25
読むことと書くことそれについてずっと、考えながら読み書きしていく