がらくた銀河

磯崎愛のブログです。本館は小説サイト「唐草銀河」。

番外3 「わたし、らぶえっち小説とか読むよ!」――添え書きの補足的に

これは、クランチさんにも掲載する。

昨日、おっちゃんさんからいただいたコメントで「物語」という語があったので。

同時連載中! 

今後もクランチさんには追記がある。

『読むこと、書くこと、発表すること』予告! | CRUNCH MAGAZINE クランチマガジン

前から色んな場所でちょこちょこと言ってるけど、

わたし、いわゆる「らぶえっち小説」とか読みます。どんなのかというと、ひたすら主人公女性が愛される女性向けのソフトな性表現のある恋愛小説、えーと、ハーレクインロマンス? みたいなのですね。

ハーレクインロマンスとフェミニズムについては、よろしければこのへんを一度よんでみたら面白いかもと。

ハーレクイン対フェミニズム

- フォーミュラ・ロマンス批評史をめぐる一考察 -

尾崎 俊介

http://www.lang.nagoya-u.ac.jp/~nagahata/amlitchubu/journal/vol8/ozaki8.html

 ちなみに、この記事のブクマでつけたように、べつに自分に都合のよい物語を好むのは女性に限らないとは当然のように思ってますがw

でも、「ロマン・ロマンス」という語が「『女子供』向けの、つまりラテン語を読めないひとたちのための物語」という意味合いであった遠い昔のことを考えると、やはり何かしらの感慨はおぼえる、という意味で。

で、

ほとんどのBLはわたしにとってこの「らぶえっち小説」カテゴリに区分けされています。また夢小説、ある種のラノベ、それからわりあいソフトな男性向けポルノ小説もこの範疇です。雑な分け方とおもうかたもいらっしゃいましょうが、そしてそれに異論はないのですけれど(チョー雑っすよね?)、わたしというひとのなかではそれで整合がとれているのです。何故なら、わたしという「読み手」には実はあんまり性差がなくて、あとじぶんを恋愛や性愛の主体や客体にする(なる、ではなく!)ことに対する引け目やら負い目やらもほとんどなくて、とりあえず「欲望、性愛におけるファンタジーを特権的に扱う小説」というカテゴリに入れこんでしまうと違和感がないのでした。

(むろん、ひとの欲望を扱わない虚構なんてナイて言われたらそのとおりなんですが、読者の欲望への「肯定感」を与えるか否か、その違いは小さくはないかと)

というわけで、

わたしがそういう小説を読む理由というのは「エロ」目的ではなくて、ぶっちゃけ「安心」なんだよなあと。いや、なんか、ほっとする、というの??? 疲れてるときに甘いモノ、どーーーしよーーーーもなく甘いもの食べたくなる、みたいなアレですねw

ひとの欲望の在り様におけるどーしよーもなさが「糖分」なんですよ、わたしには。えーと、「滋養」ではなくて、「糖分」。とりあえず脳を回すには必要っぽい、みたいな。だから、とっておくと安心てなるの。

あ、ここで、「らぶえっち小説」なんてこと書いておいて、このひときゅうに「安心」とか言って、かわいこぶっちゃってて思ったひと、それ、違いますw

純粋に「エロ」目的ならもっとハードコアな「文学」よんだほーが愉しいからです!!!!(断言)

「文学」がいちばんエロいに決まってるだろー、なにみんなすっとぼけてるんだ!?w

というのが持論なのでした、はい。

なんていうか、文章が平易で設定その他が紋切型でお涙頂戴もの、つまり感動ビジネス的な大衆向けエンタメというのは、性的なものを扱っていなくてもひとの情動に訴えかける目的でつくられているのですから、わたしはそれを「ポルノ」とみなしています。

で、ここがキモなんですけど、そういうわたしは、

「ポルノ万歳!」とも、本気で思っているのです。

ほんとうに。

ホントウなのだ。

だって、ポルノって「必要」でしょ? 

ことに、「傷ついた」という経験のあるひとには必要なモノだとおもうのよね。

(ポルノが性差別の再生産の場所になっているという言説を知らないわけではありませんが、「欲望」自体というのはおいそれと否定できるものではないので、わたしはこう主張します)

~「美には傷以外の起源はない」ジャン・ジュネ
 
長岡 義幸 『マンガはなぜ規制されるのか - 「有害」をめぐる半世紀の攻防』 (平凡社新書)
 
後半よんでいてずっと頭にあったのは、『星の王子さま』の「レオン・ウェルトに」です。
「おとなは、だれも、はじめは子どもだった。(しかし、そのことを忘れずにいるおとなは、いくらもいない。)」
こどもを権利の主体として考えること。
わ たし、本当に「大人」なのか未だにわからないし、こどものころから性格とか読むものとか好きなものとかほとんど変わってないように思えるし(成長なくてス マンとはしみじみ思うが、でも、しないんだな、これが。ていうか、ひとはちゃんと成長するってあまりに物語的にすぎるよね。うん。まあそういうことであっ ちこっちにぶつかりながら、このまま生きるぜ、ヒャッホー♪)、ここで規制派からくりかえされる「こどもを守る」という単語が本当に、よく、わからない。 そんなふうな囲い込みは、少なくともわたしにはいらない。世の中には、そういう囲いをほしいと願うひとがいるのでしょうが。でも、それは「愛」じゃないと 言いたい(そしてまた、アイじゃなくてもよくてすがりつけるものであればそれでいいという「欲望や」「弱さ」にどう向き合うかってことから始めないといけ ないんでしょうが、まあ、それは今は措く。双方それでよければそれでいいしな、と他人事感アリアリで言うことはあるし。て、わたし「黒い」かしらねw ま あ物書きだから黒くてイイでしょ。「成績悪くて性格良い子」なんてモノカキとしちゃ最低です。そう感じないひともいるんでしょうが。ツマランよ、そんな小 説家。って思うのよ、わたし)
そのひとがそのひとであることを受け止めることが大事なはず、もしも「守る」というなら、本当に危険がある場合以外 はなるべく離れてそっと見守ることが必要なんだと思う。たんに「危ない&有害」(と思われるものなだけだけどね!)ものを遠ざけておくって「怠慢」でしか ない。わたしは、そう感じる。そして、もしも傷ついてしまったらそのひと自身を信じて回復できる場所を用意することのほうが大事で、そういう救済場所(物 語)を切り捨て、マジョリティから弾かれたひとを萎縮させるだけの法を通し、オカミが管理しやすいニンゲンだけを準備育成するって感じで怖い。すごく、怖 い。
ある種のひとにはじぶんより下においておけるものを愛することが必要(正確な引用じゃありません。ごめんなさい)、とプルーストがスワンに図らずも(ていうか、ありとあらゆる企図があって)言わせてしまったひとことを思い出す。
または、スピヴァクが『文化としての他者』でくりかえし語っていたことのような。
そ ういう序列的な世界から抜け出すことができるかどうかは不明だし、不可能な業ではあろうけど、そこにとどまりつづけるわけにはいかないので、ジュネのいう ように「抵抗」するよ。コトバを、表現を、イノチを、封殺されないよう、そうしてくしかないな、と。当面はわたし自身、萎縮しないで「書く」ってことにな るんでしょうが。あと、わたしはもっと賢くならないとダメだ。きっと。
民族主義植民地主義と文学』も未読なので、なるべく近いうちに読みたいなって思いました。マル。
(し かし、書きながら、「美」なんてものがいらないひともいるのだな、とも感じたり。または「詩」のいらないひとも。まあ、いらないから、表現規制なんだろう しな。ああ、困ったな。この果てしない地平の乖離を埋めるものは何になるんだろ。せめても「言葉」かと考えているのだが、まだこたえは出ない。アガンベ ン、ドイツ語のつぎはギリシャ語続出で、いぐれーっく! と叫んでヤル気をだす魔術w)by florentine(磯崎愛)

 

マンガはなぜ規制されるのか - 「有害」をめぐる半世紀の攻防 (平凡社新書)

マンガはなぜ規制されるのか - 「有害」をめぐる半世紀の攻防 (平凡社新書)

 

 これは、よい本でした。表現するひとにはおすすめ。

星の王子さま―オリジナル版

星の王子さま―オリジナル版

 

 わたし、これ、前も書いたかもだけど、授業で訳して思いましたが、チョーむずっかしーーーー>< わたしには、内藤訳がイチバンです、言葉の本質的なところを、それこそ砂漠でオアシスを見つけるように丁寧にすくいあげていると思われる。

文化としての他者

文化としての他者

 

 講演会とかいきたかったなー。

民族主義・植民地主義と文学 (叢書・ウニベルシタス)

民族主義・植民地主義と文学 (叢書・ウニベルシタス)

 

 すでに古くなってしまったかと思うけど、つまらなかったわけではなくてやはり大事かなとか。

言葉と死―否定性の場所にかんするゼミナール

言葉と死―否定性の場所にかんするゼミナール

 

 このわたしがアガンベン読むなら『スタンツェ』からだと信じてたんですが、何故かこれを手にとってしまったです(たぶん、キニャールがいけない)。

ドイツ語がでてくると目が泳ぎますが辛抱。うむ。
 
と書いている自分が面白いw
がんばれ、わたしwww
スタンツェ―西洋文化における言葉とイメージ (ちくま学芸文庫)

スタンツェ―西洋文化における言葉とイメージ (ちくま学芸文庫)

 

 も読まないとね!

 

※追記

ていうか、これもいれときましょ。

「美には傷以外の起源はない」ジャン・ジュネ

 

アルベルト・ジャコメッティのアトリエ

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