子供の頃に、楽しい思い出はまったくない。この時代に、幸福や喜びの感情を経験したことがないというつもりはない。ただ、痛みがすべてを支配しているから、そこに収まらないものは消されてしまうのだ。
この冒頭を読んで、「痛いところはあるか」ときかれて「人生」とこたえた東欧出身の作家ダニロ・キシュ*1を思い出した。
わたしの場合、「痛み」と「苦しみ」があると自分が間違いなく生きている、という気がする。そのふたつは「息苦しさ」に集約される。この筆者のような喘息もちではないはずなのに。
読んでいるあいだ、息苦しかった。
とても、息苦しかった。
極貧の村の貧困家庭の息子エディは、子供時代からなよなよして、声も高く、姉の服に興味を持ち、芝居をするのが好きでした。男は強くなくてはいけないし、少年ならサッカーを楽しまなければならないという世界で、そんな彼は異分子でしかありませんでした。
学校での壮絶ないじめ、そして、いとこやクラスメイトたちとの同性愛体験。しかもその出来事をもとに、彼はさらにいじめられることになったのです! みんな一緒だったのに……。そして同性愛説を打ち消すための女性への接触……何もかもが滑稽なほど悲惨でした。
エドゥアール・ルイはどこから来て、どこへ向かうのか? 『エディに別れを告げて』エドゥアール・ルイ 高橋啓 訳(海外文学セレクション)[2015年4月]|今月の本の話題|Webミステリーズ!
北フランスの村の出来事なのだけど、これはおよそ豊かではない土地であればどこであろうとありふれた日常なのだろう。わたし自身、ここまで暴力があらわになり、あからさまな差別が横行する事態を知っているわけではない。それでも、片田舎で暮らしたために、まったく想像もできない、という話ではなかった。
田舎では、男の子は男の子らしく女の子は女の子らしくあるように、またその土地に馴染むようにあれ、という圧力を感じないで生きるのは難しい。
わたしの生まれ育った土地では四年制大学にいく女の子は当時まだそれほど多くなかった。結婚して子供を産むのに、そこまでの学歴は要らない、いや邪魔だとはっきりと口にされたことも幾度かある。
そのほかにも、よそから来たひと、ともかく「異なった」ところのあるひとびとを排除する力が働きやすいのは感じないではなかった。友人の家に遊びに行って、誰ちゃんとは遊んじゃ駄目という「言いつけ」を耳にしたこともある。苗字がちがうでしょう、と続いたはずだ。わたしはとても驚いたけれど黙っていた。じぶんの親にも話さなかった。うちの親は、そういうところだけはちゃんとしていた。
そういえば、我が家がいくらかまともではないと知ったのは二十歳を過ぎたころのことだった。わたしはおっとりしていると褒められながらある程度親しくなったひとに「感じ過ぎる」と責められて、細かな気配りができると羨まれながら鈍いともトロクサイとも叱られる人間だ。
長所短所などというものは物言いひとつでどうにでもなる。本をたくさん読む子だったので、そういうことを理解するのだけは早かった。
「エディは少し変わっているんだ」これが父親の言葉。サッカーをしない息子、こう言ってサッカークラブの会長に言い訳をする。
その二頁後、「よく育ったね、あんたのとこのエディ、ほかの子とはちがう、すぐにわかるよ」これが村の女の言葉。それぞれフォントを変えてある。そしてこの言葉のあとはこう続く。
「そう言われて得意になった母は帰ってくると、今度はぼくを褒めるのだった」
ああ、と声が漏れた。
ああ、これはよく知っている、物凄くよく、知っている。
「あんたの弟はすばらしい、あたしは好きよ、ふつうとは違うわ」姉が、弟エディに友人を紹介したときのこと。
恋するひとが誰にとっても「特別」だからこう言われているのではない。
価値観の逆転、その転倒が、ここでおきている。いまいる場所よりずっと生きやすいはずの「上」の世界へ行くための。
それはともかく、
ことじぶんに関しては「変わっている」とはおもわなかった。わたしにとっては常にこれがスタンダートな状態なので。まわりが勝手にあーだこーだ判断するだけさ、という諦念がいつごろ定まったのかはよくおぼえていない。
それでも、
そう、それでも。
わたしはたぶん、こういう言葉に出会うたびに曖昧に微笑んでやり過ごしてきたのだろう。褒められるのが苦手でひとと距離をとりたがるのは、この繰り返しに厭きあきし、しんから怯えてもいるのだ。そうしたことを理解したのも遅かった。
近親者が不器用にさしだしてくる「好意」、身近で血がつながった存在であるがゆえに愛したいと願いながらこちらへ分け与えようとする歪で、あまりにも僅かな、またはどうしようもなく過剰な「好意(それ を愛情とわたしは呼ばない、わたしには愛情がよくわからない)」、それを受け取り損ねながら育つひとはけっして少なくはないとおもう。とはいえ、ほとんど支配としか呼べないようなその「期待」と「情」を、だれもかれもが素直に拒絶したりできるわけもなく、または妥協しながら受けとめられるほど器用なひとばかりでもないはずだ。
わたしの父も、母も、程度は違いながらもああいったことをするひとだ。
それに、愛情表現もまた、「教育」のたまものとしてあるに違いない。それをことさら言い立てる必要もないと、個人的におもってはいる。
さいしょに「ありふれた日常」と紹介したけれど、読みながら思い出した本を。
黒人コミュニティ、「被差別と憎悪と依存」の現在――シカゴの黒人ファミリーと生きて
- 作者: 高山マミ
- 出版社/メーカー: 亜紀書房
- 発売日: 2012/05/09
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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たしかこのなかで、勉強をすると「白人みたいだ」といじめられるはなしがのっていたはずだ。
ホモソーシャルな空間の圧倒的な「暴力」、男性が男性らしくあるための掟に縛られた世界、そしてその裏に隠匿された女性への「依存」といったものも描かれている。むろん祖母や母親、そして女の子たちも強かではあるのだけれど。当たり前に。誰もが弱いままでは生きられない。
それから、こんな記事もふたつ、おいておきます。
くりかえされる「恥」という言葉、その重さについても考えているのだけれども、まだ、言葉にはならない。たぶん、これは今ここで無理やり吐き出すよりも、ちゃんとおなかのなかにためておいたほうがいい。
そして実をいうと、こちらのイベントでこの本が出ることは知りました。
東京創元社創立60周年記念イベント第3弾 酒寄進一×高橋啓×柳沢由実子「翻訳小説が面白い!」|Special|Webミステリーズ!
お話しをうかがったときからもう、たのしみでたのしみでたのしみで!!!(このイベント自体がとても素晴らしかったです。また、こういうの行きたいです☆)
それと、こんな記事も見つけたので。
高橋さん仏小説翻訳 同性愛体験「エディに別れを-」【帯広】|北海道ニュースリンク
訳者あとがきに、著者と会ったときのはなしがある。
「ジャン・ジュネ風にも、パゾリーニ風にも書きたくないと言っているよね」という言葉を見つけて、あ、とおもった。さきほどの「恥」という語、その体験とともに、ジュネの名前はずっと響いていた。
キニャールのファン、そしてもちろん高橋啓紙のファンもこのブログを読んでいるものと思うので是非!
さいごに。
読み終えて、名前を変えたエドゥアール・ルイというひとのことでなく、
「男ったらし」と言われていた女の子ローラのことを考えた。
きっとエディほど賢くはないのだろう彼女は、その後どうやって暮らしているのだろうと。
誰かといっしょに生きているだろうか。
ひとりでも、誰かといても、彼女がわらっていてくれたらいいと。そう願った。