三島由紀夫『小説読本』と澁澤龍彦『イタリアの夢魔』についてなど
昨日の補足的に。
「虚実」のはなし、でもある。
あと誰かに書いて欲しい「澁澤×三島=親王攻め塔の上の王子様受け」的な薄い本のためのメモ的に(スラッシュとして、この「×」の前後、その順番は正直逆でも裏表どちらでも読ませていただけるならいつでもお待ちしております! でも、わたくし的には三島は「受け」以外できないひとだから、なにせ塔の上の王子様なのでじぶんからイケないのさ、かわいそうに。塔は攻め落とされるものであって、でなければ攻め入らせるかそこから降りていかないかぎりは孤独なのだ)
まあ、そういうのはおいて。
ちょっと真面目に、小説のはなし。
ぐぐったら、こちらさまにけっこう長い文章がおいてあったので、是非とも読みにいってみてくださいまし。
第五章 『遠野物語』番外編
「炭取りの廻る話」の巻
三島由紀夫『遠野物語』を語る『小説とは何か』から
その原因はあくまでも炭取の回転にある。炭取が「くるくる」と回らなければ、こんなことにはなら なかったのだ。炭取はいわば現実の転位の蝶番(つなぎ目の金具)のようなもので、この蝶番がなけれ ば、われわれはせいぜい「現実と超現実の併存状態」までしか到達することができない。それから先へ もう一歩進むには、(この一歩こそ本質的なものであるが)、どうしても炭取が回らなければならない のである。しかもこの効果が一にかかって「言葉」にあるとは、驚くべきことである。舞台の小道具の 炭取では、たといその仕掛けがいかに巧妙に仕組まれようとも、この小話における炭取のような確固た る日常性を持つことができない。短い叙述のうちにも浸透している日常性が、このつまらない什器の回 転を真に意味あらしめ、しかも『遠野物語』においては、「言葉」以外のいかなる資料も使われていな いのだ。
http://home.cilas.net/yunami/monogatari/monogatarimisima.html
これもおいとくね。
いやほんと、
三島のね、この、ね、
この言いっぷりがねー、ほんとね!! 太字でおいておくよ。
しかもその力は、長たらしい叙述から生まれるものでなくて、こ んな一行に圧縮されていれば十分なのである。しかし凡百の小説では、小説と名がついているばかりで 、何百枚読み進んでも決して炭取の回らない作品がいかに多いことであろう。炭取が回らない限り、そ れを小説と呼ぶことは実はできない。小説の厳密な定義は、実にこの炭取が回るか回らぬかにあると言 っても過言ではない。
なんかもー、ほんっとにごめんなさいっ!!! ておもいながら書いてますけど、うん、ホントにごめんなさい、はい。
(いちお、ここで回せた! とおもえたこともあるのだが、しかし、毎回まわさないと意味ないしねええええ 嘆息)
せんじつ三島の美的センスを一切信用しないと書いたわたしですが(小説における美意識は信用も信頼もしてますが)、この普及版じゃないほうを見て、あとよくいわれるアメリカのでぃずにーらんど好きの件も考えあわせますと、ですね。*1
- 作者: 篠田達美,篠山紀信
- 出版社/メーカー: 美術出版社
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いや、三島の趣味というものとしては常に一貫してるんだけど、ねw
いっけん壮麗でかつ途方もなく「空虚」という。
外連味、舞台の書割りとか、ね。
バロック絵画、たとえば日本の美術館だときっと展示映えしないよなあていうあたりを踏まえて、こう、ね。違和感、というか、ね。
三島の風景描写の書割りっぽさていうのはほんと特筆すべきものというか、いや、あの平らで色彩ぺったりな「風景」のなかにああいう人物が配置されてるからああいう話しなのだし、それは、これ以上なく「らしい」から一貫してるのだけど、
それをわたしが本当に好きなのかというと、実は、なんか、チガウんだろうなあっていうのもあって。
三島は本当に死にたいと思っていた人で、生きている実感がもてなかったのではないかと高橋さんは考える。
【報告】高橋睦郎講演会「三島由紀夫と私と詩」 | Blog | University of Tokyo Center for Philosophy
これ、行きたかったけどこのときもわたし、怪我をしていて、だね!(怒)
それで、ようやく出てきたのではるね
。
この本のイイところ、素晴らしいところはもう、イタリアに特化してるところで、わたくし、この本よんで三度目のイタリア、つまりシチリアへ旅立ちましてございます。
シチリアの旅行ガイドじゃなくて、このへんの歴史に関する日本語で読める本てあんまり知らなくて。これがいちばん読みやすくてまとまってるかな、おすすめです。
アラブ・ノルマン王国、それからフランス支配の歴史。はたまたギリシャ遺跡、ともかく地中海世界そのものの魅力。
わたしをシチリアへ誘ったのはやはり、ゲーテでも、辻邦生さんでもなく、じつのところ中学高校時代に読み漁った澁澤だったなあっておもったのです。というわけで、バゲリアにある奇怪なパラゴニア荘にはもちろん行ってます。行けなかったところもたくさんあるけど。
あと、グロッタ(洞窟)とグロテスクへの偏愛、ね。
えーと、それで、この巖谷國士の解説「イタリアとの出会い」についてのはなしはあとでするとして、この本は見つからないでしょうから初出おいとくね。
きんどるもあるのね。
タイトルが、もう、いいよね。イタリアの乳房ってもう、だってねええ? 甘美である以外の何ものでもない、ていうかんじがするもんね。
澁澤龍彦全集〈20〉 狐のだんぶくろ,マルジナリア,華やかな食物誌,エロス的人間 他
- 作者: 澁澤龍彦
- 出版社/メーカー: 河出書房新社
- 発売日: 1995/01
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福武で、読んだ気がしたからはっとく、うん、こっちだ。
あとこれね。いまは文庫か。
あー、ほんと、河出でちゃんと出てるんだなあ、新しく!
なちゅかしー!
チュウニ病者に毒薬はもう必須ですよw
澁澤はかたはしから図書館で読んで、ほんとに大好きなのは買った、みたいなかんじ。
それで、はなしを巖谷國士の解説「イタリアとの出会い」に戻す。
ここに、澁澤の見送りに三島がきたはなしがあって。つまり巖谷氏もその場にいたわけで。
ところがそのうちに、三島由紀夫があらわれた。しかもその登場ぶりは、かならずしもふつうではなかった。「楯の会」の制服を着こんで、制帽をかぶって、せかせかと近づき、渋澤さんの前に直立したかと思うと、大声でなにか喋りはじめた。
内容は旅行中のアドバイスだったみたいなんですが、尋常とは言い難い、よねえ。よく知られるエピソードなので、知ってるひとはしってることでしょうが、書いとくね。
で、澁澤の『滞欧日記』には三島と「聖セバスティアヌス」のはなしがよく出てくる、という次第なのである。
芸術家はだれでも自分自身が芸術そのものになりたいという願望があるんだそうですよ。でも恥かしくてそれを口に出せないだけなんです。私小説で自分がみっともないかっこうをして、薄ぎたない恋愛をするのを書くのも、その姿が芸術だと自信がなくてはできることではないでしょう。私は詩が書けないですが、あれは写真家と共同の詩的作業なんです。写真の詩集なんだと思っています。
— 「日本一の被写体――三島由紀夫氏」(細江英公・三島由紀夫へのインタビュー記事)[3]
(これ、見たことない、どんなだろう?)
高橋さんは、「ポエジー」(実在)と「ポエム」(詩作品)を区別し、「ポエジー」から送られてきた何かを言葉にしたものが「ポエム」だという。ただし、ポ エムはいつもポエジーの受け取りそこないであり、捉えそこないであって、そこには必ず誤差が潜んでいる。しかし、詩人はそのようなものであり、自分はいつ も主体ではなく受け手だという自覚があると高橋さんはいう。
ところが、三島はすべてにおいて主体性をもたなければならない人だった。それは肉体的なコンプレックスをはねかえすということとも関わりのあることだが、とにかく三島においては受動的な立場にいることは容認しがたいことだったのである。
【報告】高橋睦郎講演会「三島由紀夫と私と詩」 | Blog | University of Tokyo Center for Philosophy
主客のモンダイはひじょうに難しいのでここではツッコミません。
とまれ、
かつてはたしかにブッキッシュっであり、何ごとも書物経由で語ろうとすることの多かった澁澤さんが、その書物を通じて知った「眷恋の地」を実際におとずれたとき、もはや書物とは無縁の、自然との出会い、偶然への反応を示しているということに、なによりも貴重なものを感じたからである。
(略)
すなわち、束の間ではあれ感覚の解放を味わっていたことは大きい。
ようするに巖谷氏いわく、澁澤は帰国してしばらくしてのち三島由紀夫の事件に遭遇し、もしもそのときに澁澤が「南」を体験していなかったなら、その対応は違ったものになっただろう、ということで。
わたしもこれに異論はない、きっと、ちがっただろうなあ、と。
二十歳のとき、パリからどんどん南へ、それこそ南仏へとバス旅行でくだっていったときの光の違い、その艶やかな、蜜のようにひたふるそれ、そして地中海の美しさというのはたとえようがなくて。
イタリアの、春と夏しか知らないんだけど、やっぱり南へ行けばいくほどに甘美で、ほんとうに美しくて!*3
わたしにとって澁澤と三島どっちがエロいひとかというと、三島のほうがエロいよなあとおもうのは、その徹頭徹尾「言語」に淫するところで。
そのいっぽう、幸福なんぞより快楽のほうが大事と言いきっている澁澤はでも、「官能」というものを知ってしまっていて。なんとなしに、その虚実の折り合いのつけかた、おとしどころとしての結実がこれだったのかなあと。
夢、というのはこう、ひじょうに官能的なものよね、と。
そんなはなし。
またね☆
*1:ルネサンスの城が欲しいだか住みたいというジャン・ジュネの美的センスについては常に、いつなんどきでも信用信頼しているが!
*2:ぜんぜん関係ないけど、この本のなかに出てくる陶芸家N氏について画廊主から名前が出たときに、あれ、なんかそのひと知ってる、ておもって澁澤 のこの本にいきつくまでのわたしの脳内時間というのは何か不思議な体験だったので、どーでもいいことですが、書いておきます。書物のなかでしか知らなかっ たひとが、じぶんの生活の場所に名前を出す瞬間の不思議、みたいなやつ、ね。そして残念ながらわたしはお会いしたことがないw
*3:エキゾチスム(オリエンタリズム)とかイロイロ考えちゃういっぽうで、でも南の官能性ってじぶんがそこへ行ってそう感じてしまったら、申し開きようもないところがあるのだ