がらくた銀河

磯崎愛のブログです。本館は小説サイト「唐草銀河」。

ひとり三島由紀夫祭り♪

 文字通り、ひとり三島由紀夫まつり開催ちう。

はてなハイクに書き散らした感想やら何やらを貼るだけのオシゴトw

小説読本

小説読本

 
三島由紀夫『小説読本』中央公論新社 読了

「おれは誰でも小説が書けるなんておもってる輩が大嫌いなんだよ、そう思わ れてる小説の「曖昧さ」「自由さ」に苛立つんだよ、だいたい日本の小説家のいうところのリアリスムなんてやつはフニャフニャくねくねしてるだけで形も何も あったもんじゃなくて気色悪い、鷗外を読め! 徹頭徹尾言葉というものに拘らないやつが小説なんて書くんじゃない!!」という三島の「叫び」超訳わたし w)が胸をついて致し方ありませんでしたまるw
うん、ごめんなさい、小説へたくそで本当にごめんなさい
でもわたし、不断に書く、ていうことだけはちゃんとしてるし、ここで述べられていることどもはそれなりに理解してるつもりだから、もうちょっと待ってね
という、個人的な感慨はともかくも、
小説家の小説論というのは、恋愛論等ではさらっと古典を題材に戯言をいってすますこともある三島のようなひとですら、ほんとうに糞真面目に語らざるを得ないところがあるよなあ、と
小説家って嘘つきなのに、小説のことばかりはウソつけないよなあ(いや、多少ついてるつもりなのかもしれんがw)
ま して、三島は本当に小説のこと以外も真面目なひとだっただろうに(この場合の「真面目」についての説明はなかなかに複雑なんだけど、韜晦や演技、それこそ 「仮面」の問題に触れないとならないから、でもまあ、ここは社会人として礼節がありマメで世間から外れないっていう程度の意味でお願いします)、小説のこ とはひたむきで熱心で誠心誠意で、なんていうかもう、イタイというかアツイというか胸苦しくてたまらない
しかも、この言葉たちが当時も、そして今も、どこまで届いているのだろうとあやしまずにはいられない
「小説は正当な読者を失ったのである」と書き記す三島の危惧は、残念ながらあたってしまっていることとおもう
小説をかくひとはもちろん、小説って一体全体なんだったっけ?
とおもうひともまた、この本をひらいてみると何かしら面白い発見があるんじゃないかなあ

2013年、三島がたいそう真面目なんでとてもびびったおぼえがある。

作家論 (中公文庫)

作家論 (中公文庫)

 

 作家論もいっしょに読んだはず。

それから、
「わたし、三島の「小説と は何か」を14歳くらいで初めてよんだんだとおもうんだけど そしてなにしろ炭斗を廻したくてまわしたくてきたのだけど こんかい読み返して、なんか、怖 い こわいっていうか、うん コワイでいいのかな?  わからないけど 今まで以上にはっきり声が聴こえる」
てのを昨日、西崎さんにふぁヴぉってもらったのだけど
コワイのの理由のひとつは、あれ、だ
「遺書」だからだ
そんなの初読時から気づいてたけど、「遺書」てのが今のほうがズッシリくるんだな2011年よりもさらに

基本、死者の言葉だよな
たいていの「作者」は死んでる
わたしのように好んで古典を読むひとは特に
そしてまた、
それは、きっと届けられるはず、どこかへは誰かへはきっと、と願われながら彼らが記した言葉なのだ

故意に、受け身でかいた
言葉自身が、なにはともあれ、作者のところへまず、届けられたものだとおもうので

わたしは、わたしたちは誰しも、その「連鎖」のただなかにいる

 それから2012年、

赫奕(かくやく)たる逆光 (文春文庫)
 
寝るつもりが読んでしまいました
おかげで背中、心臓の後ろの上あたりが痛い(をいっ!
けど、「わたし」をみる「わたし」の「わたし」みたいな感じで仮面や鎧、被膜、被り物、冠、つまりは「言語」とほぼ同じくするすべてを、なにかが、ひたひたとしみわたりさらさらとながれさわさわと心残りありげに去っていった気がする
by florentine(磯崎愛)

今回よくわかったのは、我が家はどうやら三島の家の「ちょープチぷち超絶縮小版」だということw
で、やろうと思えば、わが先祖と三島の御先祖さんは幾らでもニアミスできること(水戸城ちっこいんだよ、ほんとに あと実際、天狗党事件があるからかなりの確率で名前の見聞はありえそう)
あと、
野坂氏は大事なことを書き漏らしている
(これ、数多ある三島本に記述あったかな? あったかしら?
断言するが、これがないと三島にならぬ
三島の祖母なつの家が、水戸家の支藩だというのはつまり、代々尊王の家柄であること
つまり「水戸っぽ」というのは怒りっぽい理屈っぽい骨っぽい飽きっぽい忘れっぽいなどなど、どうみても不器用なお馬鹿さん、道化やスケープゴートになりやすい性格であること
正義感にあつく我も強い、信義が通らないことを嫌う、嫌い続けられるのは骨っぽいからでしょう
いっぽうで優雅には程遠くけれど水戸の着道楽といわれるくらい憧れが強く、花ざかりの森にいう「武家と公家」の相反する部分は水戸家の、光圀から始まる矛盾に起因すること
このへんが肝要だと思うのよ、三島の
まあ
何かが語るに落ちてる気がするが、無視(苦笑)
 
(さっき電話いただいてこれを思い出したのでこっちへのせておく)
三島が不遇をかこっていた(?)ことも、実は忘れていたりした
いや年譜を忘れてたわけじゃないんだけど、んー、もっとちゃんと自信を持ち続けていたように勘違いしてた、というのかな
いや小説についての自信はあっただろう、うん
評判が悪くとも、後退した様子はない
いつだってマンネリとは無縁というか、いちおういつでも新しいことをしないと気がすまないひとで居続けた
(で、 自信があるから川端のノーベル賞で関係が切れるんだとおもうのよね ていうか、ああ、なんかもう、わたし、自家中毒起こしそうな勢いで三島がわかるといい そうでいやだわってイヤなのかいっ!? うん、イヤ あのひと冷たい冷酷って言われるしちょーぜつ意地汚いのも事実なんだけどたんにたんにほんとに余裕が ないだけなのよイキグルシイだけのことなのよ、そう見えないから悪く思われてかわいそうなのだ、かわいそうだなあていうかかわいそうたあ惚れたてことよ的 にいってもわたしそういうじぶんがいやだわいやいやというかわたし漱石よんでないよははは)
何を言おうとしたか忘れたじゃないですかっ!?
ええと、
んーと、
そう、
私小説について、だ
日本の伝統、お家芸な代物と三島は相性が悪かった仮面の告白以外そうじゃないとか云うひとがいるんだけどわたしはそうは思わない
三島の小説はいつでも狭義の(それとも広義の?)範疇での「私小説」でしかない
題材を他に求め取材して書いたりしてるから、または小説の構造が西欧古典の構造や日本古典の伝統を堂々と引き継いでるからみんな勝手に誤魔化されてるだけでどのひとも三島(とその周囲の人間)だよ、あれ
(わたしがそうなように と、余計なことを書いておく)
逆に言うと、じぶんのことしか書けないから綿密に調べたり古典の換骨奪胎をしてみせたりしただけのはなしだとおもう(しかしこの手腕が見事なのは鷗外谷崎の衣鉢をついでいるとかいうべきか)
こういう書き方もズルイものではあるのだろうけど
誰もがじぶんの見てる世界からしか描けないとか言い出したらそれで終わりだし
(後略)

 

仮面の告白 (新潮文庫)

仮面の告白 (新潮文庫)

 

 あと、もし興味あったら、三島ファンはこれ読んでみるのもおすすめする。

チョット怖くて長らく手をだせないできたんだけど、おもいきって読んでみたら個人的に謎の塊だったものが見事に氷解することが実はたくさんあったのだ。

伜・三島由紀夫 (文春文庫)

伜・三島由紀夫 (文春文庫)

 

 いや、なんていうか、「俗」のモンダイに尽きるんだけどさ。

まあ、気になったひとは読んでみてくださいまし。

そして、2011年、

三島由紀夫『小説とは何か』(新潮社)
 
「炭取は廻った」。そうそう、これこれ! 十四歳(だったと思う)でこ れに出逢い*1、わたし、これを目指して書いてきた気がする。三島の「虚虚」(虚実ではなく、キョキョとしか言いようのない「動機」、虚が加速して実を追い抜 く三島の「姿勢」)を裏打ちし肥大増幅しつづけた、あの「強迫観念」が各所に満ち満ちて、その「そらぞらしさ」のあまり息苦しい。
世の中のひとにこの本がどう読まれるのかはなはだ疑問ではあるのだが。
三島とタイプ(気質? というか、まあ、書き方)の違う作家であろうとも、おそらく、それなりに三島を読んでいれば、これが別の形の「遺書」にならざるを得なかった理由はつかめるものと思われる。
「書く」は、どうしても「生きる」と直結してしまう。真剣に書けば書くほど、書き手は誰であれそれについて「意識」せざるをえないのだから。
(無 視はできる、かもしれない。故意にずらすことも、できる。ある程度、ソレをする。しないでは生きて書くことが難しいから。三島はそこを追及しすぎている。 故意に。それを強迫観念といい、自身に対する偏見、または幻想と呼ぶ。こうあれかし、と望む己からは逃げがたい。他者からは容易に逃げ切るウソツキであれ ばこそ、そこからは目を背けがたいのだ。ゴルゴンの盾、あれに魅入られたように。
わたしはやはり、あの四巻本を書き終えた彼をお姫様抱っこで攫っ てくるべきと思う、マジで。よくわからないが(ウソ、知っている。わたしはそれを知っているよ)、ごめんね由紀夫さんって思った。ほんとにごめんね。こん なこと書いてw けど、死人に口なしなのさ。へへん、だ!)

 2011年は必要にかられて、三島を読んでいた。戯曲と、そして『真夏の死』あたりを。音のモンダイ、コラボ花うさぎ『夢のように、おりてくるもの』で朗読をしてもらうことになったのに、わたしにはまったくもってその技量がかけていたのだ、ていうことが露呈してしまって大変だったのさ(わらえない)。あと、古典の換骨奪胎ね。

しかしまあ、ほんと、わたしには炭斗まわしたくて小説かいてるところが確かに、ある。まわしたぜ! て思えたことも零ではないんですが、なかなかまわせません(涙)。

三島の、ある種の「平らさ」を嫌う心持ちとでもいうものを感じる
「独楽」が45年の9月に書かれていることをわたしはすっかり忘れていた
すみとりといい、三島は回るものが好きだと読んだ当時のわたしは思ったはずだ周知のとおり、独楽はデビュー作に共通の玩具である
単純至極な読みだが、意外にこういうのは単純なほういい
三島はそういう点は素直だからだ
この二つ、というか回るものの澄んだセイヒツこそが三島にとって重要だという気持ちにかわりはない

三島は高速化した独楽を静止させることで永遠を見たがる


それはあまりにも
都合がよすぎる

と文句をつけるわたしの書いてる小説が「階梯と車輪」な点で語るにオチルとはこのことさ(笑)


あと
ごめん
三島はやっぱり凄く小説うまいです(当たり前だ!)
気安く「由紀夫さん」とか呼んですまぬ(でも呼ぶ!)
けど
死んだことを「馬鹿」といったことは謝らない

若さと老いの狭間がギリギリ45歳なのだとわかるが
でもそれは
あなたの言語の限界でしかなかったと思うよ
幼さと老成のまじりあう時空、その先もちゃんと見つめて欲しかったよ
規矩の定まりの外に出ることで「破壊」することもできたはず

わたしはとどめおくことをしない
すみとりをまわすことで変わる世界にあなたが感嘆した、あの素朴で驚異に満ちた場所にまだ、立っている

 

 くりかえすが、「独楽」は亡くなる2か月前のもので、三島好きなひとなら一度くらい読んだことがあるだろう。自宅に少年がやってきて、三島にいつ死ぬのか尋ねる、という例のアレだ。

三島由紀夫 (ちくま日本文学 10)

三島由紀夫 (ちくま日本文学 10)

 

 わたしの初読はこれじゃなくて、表紙がまた違う気がするんだけど(?)、こっちじゃなかったかなあ。

私の遍歴時代―三島由紀夫のエッセイ〈1〉 (ちくま文庫)

私の遍歴時代―三島由紀夫のエッセイ〈1〉 (ちくま文庫)

 

 いや、まあ、いいんだけど。

しかし、冷静になると、ほんとじぶんでじぶんが気色悪いwww

三島に関しては、なんか、うまいこと距離がとれないんだよなあ、いや、好きすき言ってるからっていうだけじゃない、っていうところが、ねw(他人の情熱や愛情なんてもんは物狂いと劣情でしかないからそりゃキモイていう当たり前のアレじゃなく)

あ、

なんか三島褒めてばっかりいるみたいだから、貶しておくねw(←このへんがキモいんだってば!!!!w)

お嬢さん (角川文庫)

お嬢さん (角川文庫)

 

 メタフィクション的手腕で風俗小説を書いてて、いや、内容自体は女性誌向けなんでよく練られている(ていう上から目線で言っておくよ!)んですけど、

ちゃんと意地も悪いし、いま読んだらそれこそ「婚活」ネタだし悪くないです、ていうか、わたし個人はそのへんのところがけっこう好きなんですけど。

でも、文章が!!!

娯楽小説、しかも当世風を意識して、音が乱れてる。字面も。

あー、三島もきっと若手作家の文体とか見て苦心したんじゃないかなあ、ていうのが垣間見えて、わたしのように捻くれたファンには強烈におすすめしておきまするん♪

三島と女性キャラについては、またいつか書くかも。

んじゃね☆(( これもはっとく http://h.hatena.ne.jp/florentine/243603517453336134

*1:テストか何か、だから三島と知って読んだわけじゃない