足がこの調子で(ギプスになった 涙)、たとえ出社できるようになったとて図書館に行けないだろうから非常に困っている。資料が読めないのはイコール小説書けないと等しいんだよ、わたしの場合。
ところで、みそひともじ駄文をものして気づいたこととして、じぶんの感情をよむの苦手、というのがあって、「相聞」相手(て書くと、なんかチョットえろい感じがしたw)うささんには漢詩みたいとか柄が大きい(だっけ?)とかなんとか言われ、
つまり、わたしのみそひともじ駄文にはいわゆる「日本的こまやかな情緒」、沓掛御大のいうところの「湿潤性」とでもいうべき趣そのものが欠けていて、ようするにあまり色気がないのはそのへんに帰着するのであろうというのは既知のことではあるのですが、みそひともじ駄文にとどまらず、わたしというひとの振る舞い全般に大なり小なりそういう傾向があるのだろうなあ、だからひとの気持ちがわからないとか冷たいとかほうぼうで詰られるのだw
(しかし、なにはともあれ、濡れ濡れとしてるひとは色っぽいよねw)
とはいえ、
式子内親王のお歌にはめいっぱいシンパシーを感じるし、あと「似てる」と言われたこともある。
(ほんとはきっと、内親王より定家卿に似たいところがあるのだがしかし、あのひとすでに人間じゃないというか、この世の奇跡というか、ホンマものの人類の歴史に冠たる天才なので我慢するw 前にどっかで書いたけど、あのひとひとりだけ、エベレストの頂上、言語芸術の突端、そこの空気薄いのに気づかないくらい平然と生きてるみたいだもんね、カッコイイ。でも、お歌やら明月記(ほんものは未読)読むとこのひと性格悪くてひとでなしで生きてくの大変そうだなあって思うけどさw)
この本は、すでに何度か紹介しているのでなんですが、
そういえば、ヴァレリーやマラルメと定家卿の歌(新古今の定家卿まわりのお歌のことね)の比較は、ずっとそう思ってたので嬉しかった。
万葉集派と新古今集派に別れるよね、でもって、沓掛御大は実は万葉好みなのだそうですが、なんのかんのと内親王というひとの歌は清冽さとかマグマを無理やり押し込めるような鬱屈、そういう激情のあるぶん、巧緻で玲瓏たるお歌であろうとも、定家卿の言語芸術の極北のヴァーチャル感というか、例の「虚虚」っぽさがないから万葉好みなひとにも愛されるんだろうなあ、ていうのが、ね。
ていうか、外見がほのかであろうとも、中身が手弱女ぶりじゃないというか、いわゆる、なよなよしてない、てやつ、だ。
そうそう、あと、
異端の皇女と女房歌人 式子内親王たちの新古今集 (角川選書)
- 作者: 田渕句美子
- 出版社/メーカー: KADOKAWA/角川学芸出版
- 発売日: 2014/02/22
- メディア: 単行本
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この本も凄く面白かったのですが、内親王の男歌女歌については、こう、呑みこめるところと難しいところがあって、御大は「男歌」説をとってないようで、うん。
このへん、むずかしいなあ。
題詠の問題というのにとどまらず。
題詠、ファンタジーというか虚構というか夢想と呼ぶか、なんにせよ、それらを言葉にしたときに自身の実感とか肉体の記憶とかそういうものがどう作用するかって、ねえ???
まして定家卿なんて、ママンが死んだお歌だってなんかこう、ほんとこう、謎なくらい言葉のみ、みたいなものだしねえ(といって、恨みつらみを上皇に投げつけた歌とかはそれはそれでこう、怨念があるし)、そのひとの作法だけのみならず、なんか、ひじょうに難しいよね。
あと、あれ、だ。
みんな、何故そんなに定家卿と恋愛感情やら恋愛関係にあったというのを否定したがる!!!!????
謎だ。
いや、べつにいいんんですけど。「学問・研究」はそういうものです。
(謡曲とか素敵じゃん、ねえ)
こういうとき、わたし小説書きでよかったーってしみじみ歓びに身を浸す。
似てる歌があるからといって互いに相思相愛だったとかそういうものじゃないと言われたらそうだけど(そりゃそうだw)、しょせん根拠なんてものは出せないし、誰かが誰かに恋してるだのそういうのはそれこそ「証立て」できるとされるのは当人たちのみの関係で(つまり当人たちでさえけっして証立て出来ない)、それが艶っぽいのだし。ていうのは心理小説読みなら知っていて当然のことで。
あ、それと、
面白かったのは、わたし、内親王は絶世の美女じゃないと思ってたのだけど(美女中の美女・待賢門院の孫なことは知っていて!)、御大は「美女」説をとるのかあってあたりに、こう、うん。いや、血筋からいったら美女だろうし、ていうか昔のひとは身分が高ければ美女だから、ていうのはおいといても、そうなんだけど。
あくまでわたしのなかでは、ですけど!(と断って)、
歌の才があって絵も上手で、例の、凄まじいまでに期待を高める定家卿の「薫物馨香芬馥たり」の威力もあって、それなのに「待賢門院みたいな美女ではない」ほうが歌の説得力がある気がして、だ、ねええええ。
いや、なんか、美貌の持ち主じゃないほうが「鬱屈」するかなあって。
忍ぶ恋の歌人になるには、なんか、絶世の美女じゃないほうが向いてるんじゃないか的な。
斎院だから恋愛に禁忌がある、ていうのではなく。
というふうに考えるのは、わたしが現代人だからかもしれないけど。
なんとなく、ふとしたときに父親の後白河院や周りのひとの「祖母(待賢門院彰子)の美しさには遠く及ばず、まして母親(成子)ほどにも美しくはない」みたいな呟きを聞いて育ったひと、という気がしていて。
そういう事情を知らないひとたちからしてみたらそりゃおひいさまでお美しくて何もかもが素晴らしくて、だけど、ほとんど伝説となってしまっているような美女と比べられてきた本人としてみたら、みたいなのがあるんじゃないかなあと。
(んー、うまくいえないんだけど、己の視覚的官能性に身を委ねた感じがないので、外界の状況をつぶさに見る視覚的なお歌は多いけど、あれだけ自己の内側に掘り進んでいくような切羽詰まった感触があるのに、ておもうと、なんだか、ね。いや、美女じゃないのでワカランケドw 病気がちのせいもあるでしょうが肉体が煩わしかったであろうことが垣間見えるというか、自己否定の強いひとというか、自虐性とか強烈な抑制のあるひとは自分が美しいと思ってないとおもうんだよねえ、いや、わたし美女じゃないので美女のほんとのキモチってわからないような気がするから美女なひと、教えて!!!)
ていう妄想を書き連ねておくよ(←ごめん、ファンのひと)
ところで、
これ、未読だったような気がするけどもしかすると読んでたりするかな、わたし。
第1部 式子内親王とその周辺(四宮の第三女式子の出生
斎院ト定前後
み垣の花―斎院式子の青春の夢と失意
前小斎院御百首のころ―平氏全盛のかげの哀傷
治承四年雲間の月―以仁叛乱と式子の周辺
贄野の池―以仁敗死とその生存説の中で
建久五年百首のころ―後白河時代の終焉と式子の落飾
軒端の梅よ我れを忘るな―病苦の中の正治百首)
第2部 式子内親王の歌について(宇治の大君に通う式子の心情
式子は多量の霞を求めねばならなかった
梅のおもかげ
花を見送る非力者の哀しみ―作歌態度としての〈詠め〉の姿勢
式子を支配した三つの夏と時鳥
落葉しぐれと霜の金星
巷説「定家葛」の存在理由
忍ぶる恋の歌
式子と定家、ならびに宜秋門院丹後
梁塵秘抄は作用したか)
まあしかし、
わたしも好きかって言ってるな、うん、
いやでも、こういう「妄想」がわたしに小説を書かすので、ほんとどうしようもないけどいいのだw
(ていうか、ほんとにイロイロ鬱屈してるのでツライっす。。。てくらいしか書かないじぶんでいるのが小説書きの務めだとおもってる節がある)