不貞寝をしていたが、とりあえず気分転換に何か書こう。
いま、こういう表紙なんだねえ。
わたしの初・三島。このなかの「詩を書く少年」のせいで、わたしは「詩を書かない少女」になった。15歳のときのことである。
我が家には古今東西の詩の本がそれなりにあったが故に書かなかった、ともいえるのだがこの三島の自伝的小説を読んでしまって後に何か書きたいとは到底おもえなかった。
かえりみれば、わたしの「初めての作家」が三島なのは当然で、我が家の書棚に元からない著者だったのだ。*1
じぶんの部屋の小さな本棚一段くらい、つまりわたしの肘から下の長さ分ほどは新潮文庫をあがなった気がする。あの特徴的なオレンジ色がだだだーっと並んでいたはずだ。その程度には入れ揚げた。
じつをいうと、表題作の「花ざかりの森」が今となっては一番好きかもしれない。その当時は、「中世に於ける一殺人常習者の遺せる哲学的日記の抜萃」とかが大好きでしたけどね!
(「海と夕焼け」とかもモチロン。いや、なんていうか、三島のチュウニ病力の凄味はほんとにホンモノで、ムチャクチャ可愛くて魅力的なので、チュウニ病大好きなひとは読むといいよ)
「橋づくし」とか「女形」とか「遠乗会」の、三島の黒乙女(乙女は黒いほど麗しい!)とでも呼ぶべき意地の悪いところは大好きで、このへんは昔もいまも、なんか、うん、ていうかんじ。フローベールとかも意地悪だけど、乙女じゃないんだよね、ほら、ボヴァリー夫人はわたしだとか言ってるくせに、乙女度が、ね。低い。フローベールにはやはり可愛げが足らないのだ。
だが、しかし、三島はチョー可愛いんだよ、そこかしこで! ひとのこころをくすぐるように、可愛い。花ざかりの森、本人たしかリルケ風とかいってるけど、ごめん、それ、少女小説風ですよ、かわいいもん。
て、おもいながらよんでます。(ちなみに読みかえさないでこれ全部書いてるよ、わたしw)
ところで、
三十越して仕事上の必要にかられて三島を読んだ編集S氏に、あれを中学生でよんで「自分に似てる」「自分ももっと小説書くぞ」て思った磯崎さん、ほんとおかしいですよね、ふつうはこんなの読んだら自分には小説なんて無理だと思うはずです、とか言い腐されたことがあるのですが、しまいには「でも確かに似てはいます」て言ったので、「でしょーーー!!!」と相槌をうって前段の悪口は忘れてあげましたw(←忘れてない)
そのくらい、わたしの三島への愛は自己撞着でキモイので大変なんですが、ちょっと晒しとくよw(わたし、若いなw いまのほうがスレてる、というのがわかったので再び晒しあげとくぜ)
~三島らヴ☆(我ながら、これは気色の悪い妄想であるとお断りして)~
16日のトークイベント後、中央快速線に乗り込んでからずっと、
三島由紀夫のことばかり考えていた。
トークで名前がでたせいもある。
でも、そうでなくとも思い出したに違いない。
「読者を信じる」ことを自分に許そうとしなかったひととして。
または、それが出来ずに死んでしまった作家として。
わたしの胸のなかにはいつも、彼がいる。
わたしの初めての「作家」であるし、そしてまた書きつづけてほしかったひととして。
世の中のひとはどう考えているかわからないけれど、
わたしは、小説家が自殺するときというのは、
「書けない」という、ただ一つの理由のためだと思っている。
病気とか借金とか色恋とか政治的理由とか? そりゃあ理由はあるだろう。
でも、「書ければ」死なないと思う。
死ねないとも、思う。
誰とはなしても、「三島は馬鹿だ」といわれる。
も ちろん、わたし自身もそう感じないではいられない。というか、「愛すべきお馬鹿ちゃん」というとっておきのナイスなポジション(ここ、笑うところなのかど うかイマイチ書いててもわかんないのですが)があったのに、どうしてそこにおさまれなかったのだろうと、いつも悲しくなる。ときたま短編でちらりとみせ る、その幼稚なつぶやきめいたものこそを、切り捨てず、大事にして、隠して生き延びさせながら、60歳か70歳すぎてもう格好をつけられなくなってきたと きに長編として世に問えば、それは、真実の「黄金の書」になったと思うのに。
ところが三島はそれを刈り取って踏みつけて無いものにして、自分の命を投げてしまった。
三島とその肉体、ボディビルの件は誰もが語りたくなることで。
ああいうことをせずにはいられなかったのはともかくとして。
なんてバランスの悪いひとだろうと嘆いても、もうその声は届かない。
だからというわけでもないが。
わたしはときどき夢にみる。
『豊 饒の海』を書き終えた瞬間の三島を拉し浚い、乳と蜜の流れる楽園のような惑星に連れて行き、20年くらい死なないように自分を痛めつけないように見守って (ていうかズバリいうと監視して)ときどき盛大に褒め上げて(途方もないさびしがりだから孤独にはたえられんと思うし、さりとて他の人間がいると緊張する し、はたまた賞賛されないと欲求不満になりそうのでイロイロめんどいのだがな)、いいかげんに堕落して日本語わすれて弛緩しきったところで地球に戻し、机 の前に座らせたいといつも思う。
それでも書きたいものがあるかどうか、問うてみたい。
きっと、あると、思うのだよ。
人気作家としての下手な賞賛で間に合わせるようなレベルのものでない、またはこう書けばこう論じられるだろうというような小さな小説世界の約束事からはなれた、超ド級の文学が。
(いやー、それにしても、この妄想も変態度満点だねv そして三島の場合、ドは、カタカナだよね。このひとSFスキーだから)
ナボコフは三島を貶しているらしいと聞いたことがあり、そりゃあそうだろうと思う。
そ れでも、わたしはロレンス・ダレルの『アレキサンドリア四重奏』より、三島の『豊饒の海』のほうが小説として格上だと思う。後から来るものは強い。いっぽ うで、谷崎の『細雪』に比べると、あまりにも弱い。おかしなことに、そう感じずにはいられない。もちろんわたしはその理由を自分なりには飲み込んでいる。 だが、ここでは挙げない。
こんな、強いとか弱いとかいう大きすぎる単語で言い尽くせるものではないし、それをちゃんと相手に伝えたいと望むなら、「小説かくしかない」と思い定めてしまうのがわたしなので。
(だってだって、小説よんだら小説かく以外にスルこと思いつかないよ!)
三島は読み手を裏切りたいと望み、賞賛という冷たくやわらかな愛撫を欲しがることをやめられず、何処へもいくことを諦めて、自分自身を本当の最後の旅に連れ出してしまった。
あ の文体で表現できる最上最高のものをやり尽くしたからといって、そしてその限界がもう見えてしまっていたとして、でも、それはきっと変えられたはずだ。変 われなくて苦しかったのだろうとはわかるけど、でも、変わることはできたと思う。たとえば、ジョイスのフィネガンズ・ウェイク自分でぜんぶ訳しちゃうとか ね。かなり無茶しないとダメだっただろうけど、やるだけの意味も意義もなにもかも、あったと思う。
「信じる」という行為は、小説家のもつ生理とかなりかけ離れていたりする。少なくとも、わたし自身はそうであるし、自分の好きな作家たちを見ても、基本「疑り深い」系であると言って咎められないと思われる。
(だいたい、大声でいうけど、信じやすい作家のかくものが面白いわけナイだろう。そんな素直で可愛いお馬鹿サンが書いたもの、読みますか? 読みたいですか? わたしは読まないよ)
信じていれば、最低限の言葉でいい。
ひとことで言えれば、言葉は重なっていかない。文章にも、ましてや小説にもならないであろう。書けてしまうという時点で、だから、信じてはいないのだ。何もかもを。
みなが何気なく思い込んでいることに疑義を呈するのも「小説家」の愚かさという名の特権であろうことを鑑みても、きゃつらは殆どなにも信じてはいないのだ。
この世がこうであること全て。ほんとうに、すべて。
さりながら。
小 説家は己の生理に反してまでも「信じる」必要があるし、それを迫られるのが「小説」(書く行為)というもので、また「信じ」なければ書き得ることのできな い「小説」があるのもまた事実で、奇妙なことにそういうことだけは「真実」だと言い切ってしまう素朴さが、これ以上ない「小説家の愚鈍」であると思いなが ら。
まあべつに、こんなこと、物書きはみんな書いてるので今さら言うことじゃないよなあと頭の隅で考えて、ほんと、このひとたちって恥ずかしいわ、と我が身を振り返らずに嘲弄し、あとでひとりえすえむ的に愉しむことにする。
いちおう、わたしにも、ささやかながら廉恥心はあるのだ。芥子粒くらいにちっちゃいけどね。
あと七度うまれかわっても、『カンディード』ほどカッコイイ小説かけるようにはならないと思う、甘ったれた自分にカツをいれてみた次第。
んじゃ、更新準備してきます☆
ちょ、待て!!!
いまブログの数みて吹いた。
みんな、春の雪だけよんでるとか、そーいうわけじゃないよね??? たまたま一巻目だからだよね??? 四つ貼るのめんどくさいからでしょ!!!
とはいえ、だ。
べつに読まなくともイイ小説って言われたらそうかもしれないなあ。必要ないひとはトコトン要らないものだとおもう。日本人作家の大部の小説読むのなら『細雪 (上) (新潮文庫)』の三巻をすすめるな、わたし。
それに、けっきょくだって、三島はゴンブローヴィッチに負けたんだよね、みたいな気持ちになることがある。やさぐれてw
もう、こういうの、愛ゆえに酷くメンドクサイ。
(ゴンブローヴィッチについてはこのへんを。でもごめん、『コスモス―他 (東欧の文学)』は未読なのだ。ゴンブローヴィッチ カテゴリーの記事一覧 - がらくた銀河)
まあでも、
わたしは大好きだけどね!!!(『細雪』のほうが凄いとおもってるけど、贔屓というのはそういうものじゃないのだよ)
(豊饒の海について語りだすと終わらないからここでやめとく)
どうせなんで、三島の自選短編もいっこはっとくね。ここを読みに来てくれる方にはキニャールファンも多いでしょうから。
翻訳者・高橋啓さんのブログから。(もう、読めないです。閉鎖されてます)
キニャールの今回の「王女メデイア」では、
Midi Médée médite.という台詞が何度も繰り返される。訳せば、
「真昼にメデイアはもの想う」
『真夏の死』というタイトルを思いついた三島由紀夫には、ただただもう絶句するばかり。
「読書の秋2011:王女メディア」に行ってきました! - がらくた銀河
どこで書いてらしたか忘れたけど、高橋さんは三島をほとんど読んだと。
なるほど、高橋さんの翻訳がわたしにとって怖いくらいにキモチイイのはそのせいかもしれないと、そのときふとおもったのだ。
わたしの三島文章評。
文章のブランク(一行明け)や句点読点の打ち方、または改行のあざといまでの巧みさは、三島由紀夫がダントツであると言ってしまう(笑)。
否、じっさい酷くあざといのだ。下品すれすれのキワモノ的エレガンス。
(下品と呼んでくだすってもかまわない。三島は多分、嫌うであろうが)
三島は小説より戯曲が上だと力説するひとの判断を、わたしはとても正当と思うのだが、それはひとえにあの「間」の取り方の絶妙さに由来するのではなかろうか?
(それだけじゃないけど、そこは大きいはずだ)
呼吸の短さに、または長文であろうとも息継ぎの見えるところに予期せざる艶が出る。ほとんど喘ぐように書く三島は、そこに喘息持ちの患者を見るように読者の目にはっきりとうつる。そして、その喘鳴は笛の音のごと美しい。
だが、長く一生走り続けるには向かないことは、言うまでもない。
「真夏の死」の象徴性等については擱いて、『豊饒の海』へ戻るけど、
文体の限界というのはあるとおもってて、この「大きさ」なりこのナントカの小説にはこの「文体」が有効、みたいなの、ね(有効ていう感じで正解ではモチロンないのだけど、やりやすいとか、そういうの、ね)。
2008年くらいからずっと、そういうことを考えていて、三島はそれなりには読んだので、わたしの大きなひとつの「指針」ではあったのだ。
まあ、そういうのはともかくも、『真夏の死』には、「煙草」が入ってる。わたしはこういう感じの小説が好きなんだなあと読みかえしておもったので書いておく。
三島は戯曲のほうがいいっていうひとがいて、うん、それに同意しないではないんだけどでも、三島が小説でやりたかったこととか、わたしにはワカルと言いたい気持ちもあって*2、
ていうか!!!
定家卿のことを書いて、それから死ぬべきだったよ三島!!! ていつも思うので何度でもくりかえしておく。
(ちなみに辻邦生さんもですよ、定家卿そのひとのみではないけどまさにあの時代、新古今の時代のことでしょ??? ほんともー、ほんともー、あなた方が書かないでお亡くなりになったから今のこの国ってこうなんじゃないの、どーしてくれるんですか!? とまで嘆いてるわたしがいるので、うん)
なんかさびしくなっちゃったので、
このひとの三島評は、とても好き、です。
そう、この表紙だよね、三島っていったらさー、ほんとさー。
三島が好きなので、図書館やら書店やらで三島について書かれた本を見つけるとけっこう読むんですが、どれにでも「うん、そうだよね」ておもうわけじゃなくて。
だいたい何についてでも、小説書かないひとの書いた小説家評というのをわたしは常にほとんど受け入れがたくて。
偏見なんだけど、小説家には小説家の「生理」というものでもあるとでも思ってるのだね、わたしというひとは。ちなみにモチロン「女」だから、というわけでなく。「小説家」という「生物」がいるとでもおもってる、わたしの偏見。
橋本さんの、「三島=塔の上の王子様」説には泣きました。ほんとに。
三島が好きなひとには、というか何かを好きというこころには、なにかしら純粋無垢で、かつたいそう粗暴で、偏屈で、どうしようもなく狭隘なものがあるとおもってて、まして三島を愛するとなったらそれはもう、ていう気持ちでいるので、
そういうわたしの気持ちを逆撫でしない、逆に慰撫してくれるような本でした、とだけお伝えを。
そして、わたしが三島ミシマいってるときの精神状態がやヴぁいのはいつもどおりですwww(←知ってるーーーーーん)*3