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がらくた銀河

磯崎愛のブログです。本館は小説サイト「唐草銀河」。

29 「奥まで一杯一杯踏み込んでみたかった。」

二連休なのに風邪ひいてダウンしててどうするわたしどうするわたし、な状態ですが、まあ、どうにかするしかありません。

夢のように、おりてくるもの

http://novel18.syosetu.com/n1558bq/ (PDFにしたり文字の大きさを変えて読むことができます)

というわけで小咄書くドコロじゃないので今日もすぐに伴走メモです。

経済の未来――世界をその幻惑から解くために
原書:L'avenir de l'économie: Sortir de l'économystification, Flammarion, 2012.

目次:
序 政治を手玉に取る経済
第一章 経済と悪という問題
第二章 自己超越
第三章 終わりの経済学と経済の終わり
第四章 経済理性批判
結び 運命論を脱けて
補遺 時間、パラドクス
訳者あとがき

★ 発売済。昨年2月に刊行された話題書が1年足らずで翻訳されました。「この本は、政治が経済に、また権力が経理になぶりものとされるのを目の当たりにして の恥辱から、やむにやまれず書いたものである」(3頁)。これが本書の書き出しです。かつて宗教が政治の上に立っていたように、今は経済が政治を「みずか らの卑屈な手先」(8頁)としており、結果、「わたしたちの社会は動きが取れなくなっている」(9頁)とデュピュイは指摘します。「脱け出すべきは資本主 義というよりむしろ経済が政治を幻惑している現下の状況であり、そこから抜け出した先で新しい経済理性そのものを創り出すべきなのだ」(9-10頁)。 「わたしたちが現に知っている経済にはおそらく未来がない」(11頁)ものの、「あたかも破局の到来がわたしたちの運命であるかのように、しかしわたした ちにそれを拒む自由のある運命であるかのように考えること」(239頁)、これがデュピュイの言う「賢明な破局主義」です。「資本主義の延命は今日、グ ローバリゼーションの成否と分かちがたく結びついている。〔…〕グローバリゼーションの失敗は反グローバリゼーションの勝利ではない。それは必ずや何かし らの大きな破局、付随的(コラテラル)ダメージとして資本主義の終わりをともなう破局であるはずだ」(166頁)。人間の経済活動がもつ根本的な問題点を 抉りつつ、破局ではない別の運命を選ぼうとする本書は、まさにビジネスマンや政治家にとって必読の痛烈な皮肉で読者の日常的まどろみを覚ましてくれますhttp://urag.exblog.jp/17221562/
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せんじつのヴァールブルクしんぽでこの訳者さんの発表すばらしかった
でぃ でぃゆべるまんに対して「上手に語りすぎている」というようなことをおっしゃっていたのが印象的で、これはたぶん、みなが感じていたことだとは思うけど、 わたしもそうおもってて、でもそれがゆえに気持ちよくて、その気持ちよさが何かを失っていることに気づいてさえも(そりゃ気づくわな、誰しも)、わたしは 悪魔に魅入られたようにひかれてしまうという「語り」への欲求があるということも再確認できたし(つまり語れないヴァールブルクの姿、その「偉大」もそこ ではっきりとたちあがる)、そして「そのひと固有、特有のものはどうしてもある」というようなこともはなしてくれて、そのひとことがわたし的にはたいそう な「救い」「安堵」になったので、これも読む予定(先になるかもだけど、読む)

by florentine(磯崎愛)

 けっきょく、これ、まだ読んでなかったよね、わたし?

経済の未来: 世界をその幻惑から解くために

経済の未来: 世界をその幻惑から解くために

 

 

ヴァールブルク著作集 別巻 1 ムネモシュネ・アトラス

ヴァールブルク著作集 別巻 1 ムネモシュネ・アトラス

 

 チョー自慢するけど著者サイン入り本もってるのはこの世でたぶん、わたしだけ。

 

ニンファ・モデルナ: 包まれて落ちたものについて

ニンファ・モデルナ: 包まれて落ちたものについて

 

 読まなきゃなのだがまだよんでません><

 

昨夜、何故かきゅうに感極まってしまって。

体調悪いと情緒不安定になるものだけど、電気消してベッドにもぐりこんですぐ、ぱたぱたと枕にあたって音がするほど涙が溢れでて、あたまのなかでは冷静に、あー病院予約しないとヤヴァイかなーとか思いつつ、泣くとキモチイイんだよね、てその愉悦にだらしなく溺れながらしばらくじっと身を凝らせて、ナミダ噴出器官になってる感覚をひたすら味わってた。

と書いてて、というか「へりくつ」タグの記事を読み返して今も、なんかまた、涙がこぼれてきてチョット困ってるんだが。

 

「florentineさんのトラックバックに 対する私の感想はやはり少し僭越に過ぎたのではないかと不安だったが、florentineさんのご返信に感じられる「気にしない力」が嬉しい。でも同時 にそれは「気にする力」のことでもある。本当は気にしたからこそflorentineさんはあのようにあえて真っすぐ受け止め返してくれたのだと思う。私 も悩みながら書いた感想だった。florentineさんというかたの奥まで一杯一杯踏み込んでみたかった。florentineさん、勝手な言い分ばか り書かせてもらったのに恨まずにいてくれてありがとう。」

そのひとの名は - がらくた銀河

http://florentine.hatenablog.com/entry/20100510/1273500217

 

「恨まずにいてくれてありがとう」――。

 

無理やり意識を『夢のように、おりてくるもの』へと振り向けて書くと、

というか、これを記すのはきっとラストになるのかと思ってきたのだけれど、

黒髪君にしても茶髪くんにしても、そしてじぶんのはじめの構想としては第二部の主役であったはずの店長にしても、その愛人であるラスボスも、むろん師匠や教授、弟子やその恋人も、誰かの遺していった「言葉」を、「想い」を、その「生の重み」を、深いところに隠し持ち、または大切に抱えながら生きている。

 

わたしは、その言葉を「寿ぎ」としなければならないと、そう考えてきたのだなと泣きながら思い至り、でもそれはやはり少しばかり「狭隘」な受け止め方だったなと。狭隘? 偏屈? んー、否、驕った、うん、驕った、が合ってるか。

でも、

こんなにしてもらったのに、何にも返せない。

それが、とても苦しい。

せめてもだから、小説が上手にならないと、満足してもらえるレベルにならないと申し訳なさすぎる、ていう気持ちで苦しい、というのはある、な、と。

けっきょくそう考えると相手のことでなく、自分の気持ちで泣いてるんだが(あw)。

という、非常に情けないところにいつもとどまってしまう自分の至らなさというのはほんともう、どうにかならんのかと思うのだがしかし、これが現実ですこっから始めないとなりません。

なにはともあれ、

「書く」ことだけは、ちゃんとやろうね、わたし。

 

そのひとの「言葉」は生きている。
WEB上に、そして勿論、わたしのなかに。その奥のいちばん柔らかく根源的なところで、しっかりと強く、息づいている。
 
そのひとは、わたしには「文学者」に見えた。
名前を、hebakudan(屁爆弾)という。

そのひとの名は - がらくた銀河

http://florentine.hatenablog.com/entry/20100510/1273500217