去年の今頃、花うさぎのひとたちはこんなことを話してましたw
いわゆる一続きの伴走メモのなかにはなかったのだけど、今日はこれをとりあげてみます。
長いけど、これは一気に読んでもらえるならそのほうがいいだろう、と。
とはいえべつに、読まれる必要のあるものでもなく、たんに「記録」としてここにおいておくか、みたいな感じでもある。
じぶんのかいた小説は読んでもらいたいと切にせつに願っているけれど(願ってるよ!)、こういうのは正直、たまたまこういうのが好きなひとが見つけて読んでくれたらありがたい、そんなふうにおもってる。誰にも彼にも通じるものでもないだろうし。
それからね、
ハイクという場所は、リプライ機能がついててそれで会話が楽しめるのですが、わりあいこう、お互いのあいでーぺーじでエアリプし放題な放縦(w)ところもあって、その、えっと、なんていうのかな、そういう「気心の知れた関係性」とでもいうものを十全に味わえるのも好いところなのです。
そうした自由さ、寛容さのあらわれとして、受け止めていただけると嬉しい。
では、イクよ。
むーーーー(なんか、さいきんこういうのが噴出してるなあ じぶんの感情を脇における、おくことをよしとする批評性のあるひと、
好き=良い、ですませられるひと
理と情といってしまえば単純だけどわたしのTL)※スタコメ内の言葉こっそり反応、発信、小説かきはけっきょく小説でしかものがまともにいえないのだ
ちゃん呼びされとるし・・・、
いえ、そっちが素ですけど(汗)、
そして照れるんですけど!(大汗)
わたしがスタコメでぶつくさいうのは、
たいていはふたつの理由からで、
ひとつは、
この社会における興業的(ひとに見せるもの、アート等含む)なものに関して己が気にくわないこと(ここらへん傍点ねw)には無視や黙殺を決めつけるのが実はイチバン有効
ていうわたしの「信条」があって(いやー、だってさー、物書きだからわかるけど、ナイものにされることより辛いことないからね!)
これ以上は拡散させないぜ! みたいなw
一顧だにしない、という姿勢を貫きたいの
けど、ふたつめに相当するのは、
それを「見過ごす」のはやはり納得がいかないので(それは「卑怯」とか「怯懦」であると思えるので、そうじゃ悪いというのではないのだけど、でも、まあ、なんていうか、気づいたのに知らぬふりというのはそれはそれで何か違う気がする、のですよやはり)、
この先わたしが小説にするための「叩き台」となる言葉に少しだけ、そのときの空気やひかりや場そのもののなにかを触れさせておいてやりたい、ていうのがあって、
あまりにもグダグダでほんとに隠したいことは鍵かけたダイアリーにかいておくんだけど
たぶんハイクという場所への「甘え」も含みつつ、
(つまりは誰かへの「期待」という、品の無さではあるのだけど)
ちょぴっとここへ漏らすんだとおもう
そうなのだ
対話するならまだしも(ここはガチで突っ込んでいきますぜ!)
そうじゃないときには、出来得る限り「一般化」とか「普遍化」とか、または「汎用性」みたいなものを与えたうえで語りたい、ていう欲求があって、
それは個別性と普遍性の問題で、小説と物語の関係というか、
または撃ち抜きたいモノや、裏切っていく言葉との「距離」や「強度」の問題だったりするんだけど
このへんは、説明がむずかしすぎるので割愛
たんに、わたしがどうしようもなく小説書きなのだ、
ていうひとことで足りるんだろうな、ははははは
うん、でも、
いいたいことがいえる、ていうのは、
じぶんの場合だと、それはやっぱりどうしても誰もいない場所、どこでもない場所、「小説」しかないんだろうなあ
と、
あらためて
ちゃん て呼びたくなるかんじだったんだもんしょーがないじゃんw
でさ、
>このへんは、説明がむずかしすぎるので割愛
そりゃねーわw
あたまわりーけど聞きたいんでゆっくりでいいから説明してくださるとうれしいな。そらから、わたしがみるかぎり世のなかのたいていのひとがつかう「良い」「悪い」は、わたしが思う処の「善悪」のはなしじゃなくて、たんに「規範」や「ルール」、「空気」や「言説」にそってるかそってないかでしかないと感じる
そ ういいうのはようするに社会的な要請とかいうヤツで、そういうのはもう、わたし的には善悪とはチガウはなしになる、というか、そこらへんがまさに『ツナミ の小形而上学』的にいうところの「悪」のはなしと通じてしまうのだけど、みながそれはよせやめろということが本当にどうしようもなく大切な「善」である、 というはなしは物語の中にはちゃんとある
現実にももちろん、あるはずだ
けど、いまはそれをおく
わたしというひとは、非社会的態度 を貫くことに狎れきってしまってるというか、中年ニート歴長すぎてあちこちだらけすぎてるし(笑えないYO!)、べつにそうしたくてそうしてるわけじゃな くて、ちっちゃいころから身体よわくてみんなといっしょがどうやっても不可能で、それに関するみなが納得する言い訳にことかいていたので(大病してないか ら)、その他どうやっても堅気なひとになれないことも人生の途中で理解したし、もうどうしようもないとおもうw(小説家になりたい人間が堅気なはずなかろ うさw)
で、まあ、
堅気じゃないひとが、堅気じゃないなりに生きてけるかどうか、ていうのはとても大事なことだとおもうので、じぶんの生存欲求のはなしだけじゃなくて、なんらかの救済システムのあるなし、ていうのにはちいさなころから物語を読み続けてきたために幼いころから興味があるのだふとおもいついた、
http://h.hatena.ne.jp/florentine/299890373383686540
うささんへのご返答の一貫でもある
昨今では、美術館クラスの作家・アーティストといってもぜんぜんそれホンモノじゃないってひともいるので、うえのリンクでの書き方はもしやいらぬ誤解を招くような気もして不安になったなう
歴史に残るであろう、とかがいいのかな、やはり
有名であるから、または稼いでいるから、または美術館や国家や時の権力者に認められたから、ていうことでそのひとが「芸術家」だと判断するのは、少なくとも西洋美術史を眺めれば、チガウものなので
た とえば、ルネサンス時代だけとってみても(わたしはそこしか知らないのでここを引き合いに出すけれど)、その当時の売れっ子であったペルジーノが必ずしも いま高く評価されているかというと違うわけで、といいつつ、いままさにルネサンスはレオ様ミケ様級の超一流の画家ではなく、そのしたであるとされてきた画 家たちの研究が盛んになってる(つまり再評価の機運の高まりともいえる)のを見るわけでもあり、もちろん彼らがミケ様たちを凌駕するということにはならな いだろうけど、西洋美術史自体の反省とかイロイロあって、面白いことになっている
あと、美術館でいえば、オルセーなんかが特に顕著なんだけど、近代アート、つまり印象派とアカデミスムの画家評価の軸がおよそ十年スパンでちがってるはず、いえ、その、ちゃんとした文献よんでないんですが、ただもう、それは見てきたひとたちのそれでわかる
基本的に、「評価」は歴史がすることだ、くらいでちょうどいいとおもう
むろん、それさえひっくりかえることもあるんだけどペスト後のイタリア絵画―14世紀中頃のフィレンツェとシェナの芸術・宗教・社 (UL双書 30) [単行本]
ミラード・ミース (著), 中森 義宗 (翻訳)
ペスト後のイタリア絵画―14世紀中頃のフィレンツェとシェナの芸術・宗教・社 (UL双書 30)
- 作者: ミラード・ミース,中森義宗
- 出版社/メーカー: 中央大学出版部
- 発売日: 1978/01
- メディア: 単行本
- クリック: 4回
- この商品を含むブログを見る
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
主要目次
序文
第一章 新しい形式と内容
第二章 十四世紀中頃の二都市
第三章 罪、悔悟および宗教的法悦
第四章 スペイン礼拝堂
第五章 テキストと図像
第六章 ≪謙遜の聖母≫
第七章 ボッカッチョ
付録
Ⅰ 年表
Ⅱ 画師についての事実
Ⅲ オルカーニャおよび同時代のフィレンツェ絵画に関する最近の評価
Ⅳ アンドレア・ダ・フィレンツェ作の新多翼祭壇画
http://www2.chuo-u.ac.jp/up/isbn/ISBN4-8057-7129-1.htm
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
初期ルネサンスを知るのに最適の本のひとつ、かな??
というか、「芸術家・作家」というもの、名前の残るかどうか、ていうその「線引き」の問題とか鑑識眼のための本でもあったかもしれない、もう二十年以上前によんだのでイロイロ忘れてるけど
真贋についてのみならず、
美術品を見る眼につきまとう「問題」というのは大きい
このへんはもう、なんか、今現在の問い直しもありすぎてよくわからない、追い切れない
それから、
偉大な美術史家ロベルト・ロンギによってカラヴァッジョは発見されたのはこの界隈では著名なはなしだし、サンドロでさえも大々的に見出されたのは19世紀のはなしであって、ことほどさように「評価」というのは困難なものなので大変なのだ、それを説明するのも
まあでも、わたしはそういう世界にいきてるので
大変でも、しがみつくしかないし
無いアタマでやってくしかないのであったまる(て、なんかひとごとじみておわらせたよ、わたしってばw)そして、昨年わたしはそこに命をはってるひとの講演*1 (http://h.hatena.ne.jp/florentine/243608759789604693)を聴いてきて、
命はってるって、え? て感じかもだけど、まじで、きったはったというか、
歴 史と切り結ぶ、他の研究者との争い、美の判断者(とあえてかく)としての名誉と、なんかもうよくわけのわからないものをかけた戦いの一端(べつに喧嘩した とかじゃないよ、いや、ある種の威信、国家戦争的なところもないわけじゃないけど(美術というのにはどうしてもそのへん絡む)を感じたし、
そうい うのとはべつに、「美意識」(わたし自身へのそれとちがって、ここで使うことへの躊躇いは一切ない!)の凄まじいまでの研鑽とか相克とか、死線を潜り抜け る的な緊張感があるのはわかったのだ)を垣間見て、むちゃくちゃに感銘をうけたので(いえ、そういうのは本のなかではたくさん知ってたんですが、それを日 常してるひとに会う、ていうのが初めてだった)
カタログレゾネつくるのは、あれはもう、なんていうか、歴史に本当に線を引く、ていうものなんだなあ、と
わたしはなにかに線を引くことなんてできるのかっていつも問うけど
ほとんど誰かを殺すようにして、つまり「作家」、ここならプッサンという作家の個別の命を、その固有の生命や存在といったものを、美術史家は斬る、殺す、または活かす、生かす、ということにおいて「線」を引くのだな、と
そこでプッサンというひとが生まれ変わったり少し死んだりするのだな、と
もちろん、そういう判断についても西洋美術史側の、ロゴス中心主義的なもの、パターナリスム的なもの、植民地支配的なもの等への「反省」だか「問い直し」みたいなのはとうぜんある
(ちょくせつてきにはかんけいないけど、ディディ=ユベルマンあたりのシゴトは、そういうもののひとつ)
なんだけど、
あれはあれで、わたしには感ずるところがあったのだ
じぶんにあれほどの「智慧」とか「感受性」とか「賢明さ」、もちろん「知識」もろもろがなくても、
とにかくも、「作品」や「作家」と真剣に向き合うことしかないんだな、一対一の関係だな、ていうのがまたあらためて深くじぶんのものになって、よかったです
とはいえ、
べつに、誰もかれもがこうしたらいいとも思わない、というか、思えない
それはけっこうめんどくさいことで、ただでさえ生きるのは大変なことだとおもうから
じぶんの好悪の感情でさえ、ひとは容易に騙し得る(「評価」ならなおさら!)
じぶんのかんじゅせいくらい、ていう詩があって、わたしはあれが好きだけど
ああいう詩がこころをうつのは(好きなひと、けっこういるよね?)、
げんじつ、そうはなれないひとのほうが(じぶんも含めて)多いからっていうのが一因だろうとは想像がつく
だって何もかも上手くいかなくて、誰からも助けてもらえるとかなくて、どうしようもなくつらいときあるじゃん、ねえ、みたいな
この世のすべてと自分を呪いたくなる瞬間に、じぶんの感受性は守られてないよねなどというけれど、
わたしはじぶんをものを発言する場が与えられているゆえに「強者」だとおもうことにしているので(超絶だめだめな中年ニートですけどw)、小説を書いて発表するという行為には「特権的」なものがあるとしたほうが書き手自身を律するものになると信じて書いている
もちろん、そんなものはナイ、そんなふうに書き手を縛るな、ていうはなしもあるのだが、べつにこの主語はいつでもわたしで「他者」ではない、当たり前に
ここでいう「わたし」は、「個」としての作家性とでもいうべきものっを(て書きながらマジで吹いたよ!)、いやだなあもう、恥ずかしくてやなんだよ、こういうこと言うの><
うーーーーー
待ってろ世界! とは叫ぶけど、さけべるのだけど、
真顔で所信表明みたいなの、実力もないのに言えないよ
ていうのが、
わたしという人間の廉恥心の限界ではなくて、
小説家の、言葉というどうしようもなく扱いづらいものをつかって表現しないとならない、表現することを選んでしまった人間の「節度」、または「理性」だとおもう、ということが「距離」のはなしのひとつ
さらには、
わたしのことをいっているのですとどんなにくりかえそうとも、そしてわたしが本当に真実、神かけてそう思って るのだとして(ていうか、無茶苦茶ハッキリ言うとじぶんに余裕ないからひとのことはよくわからないので、この言葉にはウソがないとおもうんですが、それは それで別の意味でたいそうどうしようもないひとだとはおもう)、そうは受けとられない可能性がたくさんあるわけで
だいたいにおいて、わたしが撃ち抜きたいひとではないひとへとこれは届いてしまうことが往々にしてある
平らな言葉で記すけれど、
何らかの抗議をするときに、弱い立場にある人間側にこそ、相手にその「気づき」を与え、言動を変更するよう説得するための「知」や「センス」、他の言葉で言うなら「力」が必要とされてしまう現状、というものをどうやって打破したらいいのかがわからない
それについて、5歳くらいからずっと、考えている
世界中の物語、というものを並べ渡してそこに「構造」がある、ということに気づいたときから
わたしが生まれてはじめてかいたとても長い長い、いまでいうラノベみたいな小説のラスト近く、
世界最大のコングロマリット(てこの言葉みないよね!)令息が、あるテロリスト組織のトップへと魅かれてしまう(べつにBLじゃないんですが、これ)、というはなしをかいていて
ずいぶんと時がたって、
Le Captif amoureux みたいだなあ、て思ったのだった
今日はあえて、その他のタグをつけないでおく、かなと思うのだが、どうしよう。タグだけでなく、アマゾンリンクも貼らないでおこうかと考えるのが、わたしのイケナイところだろうか?*2
わからない。
でも、わたしには、どうしてかそういう妙な「恥じらい」がある。
それと同じく、
もうほんとうにはじめから、『夢のように、おりてくるもの』は、わたしにとっての《Le Captif amoureux》なのだというのは気がついていて、でもそれはやはり恥ずかしいことだと思う気持ちがいつまでも、じぶんのなかにある。
あたりまえの気後れや劣等感、弁えや冷静な分別、といった「わかりやすさ」だけでなく、ものを書くことが恥ずかしいことだ、そういうひとが生きていることすらもそうだろう、という深いところに兆す何かが。
でも、
恥ずかしいのは好きです。
そういうひとが、書いている。
http://novel18.syosetu.com/n1558bq/ (PDFにしたり文字の大きさを変えて読むことができます)