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がらくた銀河

磯崎愛のブログです。本館は小説サイト「唐草銀河」。

22 「私たちはいつのまにか死者は静かに死んでいくものだと思いこむようになっている」

kakuyomu.jp

うー、小咄がむずかしくて往生してます><

いや、踏ん切りが、じつはたぶん、ついてないのかも!?(とかいうと、「突き落とし」にくるひとがいるかもしれないからコッソリねwww)

アルファポリス第1回BL小説大賞 参加作品

http://www.alphapolis.co.jp/contPrize/index/4/1/

投票した方にもプレゼントがありますので、どうぞ奮ってのご参加を☆

そして、拙作はこちらです。

夢のように、おりてくるもの

http://novel18.syosetu.com/n1558bq/ (PDFにしたり文字の大きさを変えて読むことができます)

 てことで、伴走メモです!
(なんとなく、更新ないと応援よろしくと言いづらいwww)
「何であれ生命現象について、あるいはごく狭くとらえて生物学的現象でもよいが、それについて考えてみれば、暴力と生命がほぼ同義であることが理解できる」
ジャン・ジュネ「暴力と蛮行」
http://h.hatena.ne.jp/usaurara/243598062288400494
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「あえてこう解説しよう。書くことは裏切りを働いた人間が頼れる最後の手段だ、とね」
「書くということ、それはおそらく、誓約の言葉が支配する場所から追放されたときに人に残されているものだ」

ていうかわたし、『聖ジュネ』を読み返すべきなのか、いま気づいた
by florentine(磯崎愛)
 
「(略)自分に対してしか正直になれない。話し始めると、まわりの状況によって裏切られる。自分一人に話しているときは、私は自分を感じない。時間がない し、自分に作り話をきかせるまでもない。自分に嘘をつくには年をとりすぎている。それに、私がパレスチナ人たちと一緒にいることを受け入れるのは、孤独の なかでのことだ。ライラにウイといい、君と一緒に出発しようと言うときではない。そういうときではない。それは私が一人でいて、自分だけで決心するときな んだ。そしてそのときは、自分に嘘をついていないと思う」 
「私の考えでは、家族というものはおそらく最初の犯罪の構成単位で、もっとも罪深いものだ」
ジャン・ジュネ『公然たる敵』より

「少 なくとも中世以来、西洋社会は、告白というものを、それから真理の産出が期待されている重要な儀式の一つに組み入れていた。一二一五年のラテラーノ公会議 による改悛の秘蹟の規則化、それに続く告解の技術の発展、刑事裁判の手続きにおける告発に重点を置く方式の後退、有罪性の試錬(誓言、[探湯のような]神 明裁判、神の裁き)の消滅と訊問ならびに調査の方法の発展、犯罪の追及において行政府の占める役割の増大――しかもそれは私人間の調停という方策を犠牲に して実現された――、異端審問裁判所の設置、これらすべては、世俗的ならびに宗教的権力の次元において、告白に中心的な役割を与えることに寄与してきた。 そもそも「告白(aveu)」という語ならびにこの語がさし示してきた法律的機能の変遷は、それ自体において特徴的である。他者によってある人間に与えら れる、身分、本性、価値の保証としての「告白[告解]」から、ある人間による、自分自身の行為と思考の認知としての「自白[告解]」へと移ったのである。 個人としての人間は長いこと、他の人間達に保証を求め、また他者との絆を顕示することで、(家族、忠義、庇護などの関係がそれだが)自己の存在を認識して きた。ところが、彼が自分自身について語ることができるか語ることを余儀なくされている事実の言説によって、彼を他人が認識することになった。真実の告白 は、権力による個人の形成という社会的手続きの核心に登場していったのである。
 ……告白は、西洋世界においては、真理を産み出すための技術のう ち、最も高く評価されるものとなっていった。(9)それ以来、我々の社会は、異常なほど告白を好む社会になったのである。告白はその効力を遥か遠くまで広 めることになった。裁判において、医学において、教育において、家族関係において、愛の関係において、もっとも日常的次元から最も厳かな儀式までであ る。……人は告白をする――というか、告白をするように強いられているのだ。告白が自発的でないか、あるいは何らかの内的要請によって強制されていない場 合には、告白は奪い取られる。人は告白を魂のなかから狩り出し、肉体から奪い去る。中世以来、拷問は告白には影のようにつきまとい、告白が力を失いそうに なると、それを支えてやる黒い双子なのである。(10)最も優しい愛情がそうであるように、権力の最も血腥いものも、告白を必要としている。西洋世界にお ける人間は告白の獣となった。」(Foucault [1976=1977:273-274=1978:58-59])
http://www.arsvi.com/w/fm05.htm#04

「私たちは死んでいくものの疲労については想像が及ぶが、そのはてしない消耗には、読む側の消耗なしにはつきあっていけない。
 しかし、マイノリティとしての死者の発信する言葉とは、消耗の言語に他ならないのではないか」
「私 たちはいつのまにか死者は静かに死んでいくものだと思いこむようになっている。しかし、これは生きているマジョリティの独断と偏見にすぎないのではないだ ろうか。マイノリティの言葉を遮断して生きていこうという衛生学がはたらいて、私たちは死者に猿轡をかけてしまっているだけではないか」
「私たちには、血なまぐさい言葉、消耗させる言葉、倒錯的な言葉に対して耳を塞ごうとする傾向が――これはあくまでも傾向なのであるが――ある。
 しかし、この傾向になんとかして逆らっていかなければならない」
「文 学の疲弊をよそに、言語はいまなお疲れ知らずでいるが、それならば鍛えられるだけ言語を鍛え上げようではないか。マイノリティの声を「雑音」として「破壊 的音楽」としてしか聴こうとしない傾向に対する対抗的な傾向を準備するものとして、文学はこれからまだまだ言語にすがりつづけていくしかないのだから」 
西成彦『エクストラテリトリアル 移動文学論Ⅱ』(作品社

「幾分なりとも美を意識した書物を書く者は、声の亡霊をおのれに引き寄せてしまう。そして自分ではその声を発することができない」(パスカルキニャール『音楽のレッスン』より
by florentine(磯崎愛)

 

公然たる敵

公然たる敵

 

 フランス語読める方のために、これも貼っておくねv(わたしはよめないよw)

Jean Genet · Violence et brutalité

http://etoilerouge.chez-alice.fr/docrevinter/allemagne9.html 

『公然たる敵』(月曜社)の「暴力と蛮行」の原文。
まだ原文全部ちゃんとは読んでなくて最初と最後のパラグラフのみ確認というチョーいい加減であやしいチェックですが(をいをいっw)、翻訳の冒頭の一文を読むだけで何というか、凄まじく真理ついちゃってるジュネの本領が発揮されまくってると思われたのでご紹介。
 
「ジャー ナリストたちは目くらましさながら次から次へと言葉を撒き散らすばかりで、それらの言葉を意識のなかでじっくりと萌芽させていくことにはかまけない。「暴 力(ヴィオランス)」--そしてそれと分かちがたく対をなす「非暴力」という言葉が、その一例である。何であれ生命現象について、あるいはごく狭くとらえ て生物学的現象でもよいが、それについて考えてみれば、暴力と生命がほぼ同義であることが理解できる」
 
ここには、ジュネの苛立ちが屹立している。 by florentine(磯崎愛)

 

 けっきょくこのときはチラ見しただけで読み返さなかった。9歳でこれを読んだときからわたしの大切な本のひとつ。

フーコーも幾冊か連載中に読み返したりした。けど、ほんとは読まないといけなかったのは、バシュラールからカンギレムとかの流れなのだが、けっきょく手付かずで、勉強不足で情けない限りです。

エクストラテリトリアル――移動文学論2 (移動文学論 2)

エクストラテリトリアル――移動文学論2 (移動文学論 2)

 

 先日、『クレオール事始』も読んだばかり。

わたし、この方の本は全部よむ認定なのだ。

そして、いつものごとく、キニャール

音楽のレッスン

音楽のレッスン

 

 『夢のように、おりてくるもの』というおはなしは、こういう本を読みながら書かれたものだったりします。ほんとはもっと頭のいい、つまり賢くてそれゆえに優しい茶髪くんのようなひとが書いてくれたらもっと素晴らしいおはなしになっていたのだろうと思いながらも、未熟で至らなくとも、こういうことを考えながら書く、と思い定めているので一生懸命書きましたし、第三部はたしかに終わったけれど、いつか何かしらのカタチで、彼らのいる「視界」という場所については今後も書き続けるものとお約束いたします。