がらくた銀河

磯崎愛のブログです。本館は小説サイト「唐草銀河」。

92  「一貫性」、カルヴィーノ様の言葉を思い出しながら

kakuyomu.jp

伴走メモの更新はちょっと間が空きました、すみません。

ただいまです。

今日はひさしぶりに実家のほうへ行きました。

詳しいことは書きませんが、今日明日あたりというのは何か、おおきなひとつの節目のような感じです。

夢のように、おりてくるもの

http://novel18.syosetu.com/n1558bq/ (縦書きPDFにしたり文字の大きさを変えて読むことができます)

『夢のように、おりてくるもの』 | CRUNCH MAGAZINE クランチマガジン - 書き手と読み手をつなぐSNS

(連載中です。こちらも文字の大きさ変えられます。コメントとかはこちらのほうがつけやすいかもです)

てことで伴走メモへ行くところなんですが、ちょっと今日はこれをとりあげたい。

 クランチマガジン主催の今村氏のこの言葉をよんですごく、感じるものがあったのでご紹介します。

商業シーンというのは、好き放題やらかしているネット文芸の世界からみると、自由度が非常に低い世界です。
何かちょっとやるたびに、コアな文芸ファンや批評家などから「文学が分かっていない」と批判され、一般読者からはすぐに「つまらない」と文句を言われます。何をやっても誰かから攻撃される、そんな世界です。
しかも、一時期もてはやされたとしても、あっという間に忘れられてしまうわけで、「これさえやっていればいい」というような安全な道はどこにもないと言えます。
社会や市場の変化に応じて、求められるものもどんどん変わっていきます。ただ机にすわって必死に文章を書いているだけで何とかなるほど甘くなく、あの手この手を繰り出しながら、走りながら状況に適応し、そのなかで自分なりの一貫性をも保ち続けないといけない。

批判や文句を言う側ではなく、言われる側に回ると決意すること。
永久に続く不安のなかに身をおこうと心を決めること。
100%全人格を賭けてそれができるかどうか。
そこまでして、この世界に言っておかなければならないことがあるかどうか。
「好きなものを趣味で書いて、友達に読んでもらう」というのでは絶対に満足できない理由が、身体の隅々にまで満ちあふれているかどうかです。

入稿が終わっ……たのか? | CRUNCH MAGAZINE クランチマガジン - 書き手と読み手をつなぐSNS

 何か言うのは恥ずかしいので、

2010年の、じぶんのハイクを置いて書きに戻ります。

「軽さ、速さ、正確さ、視覚性、多様性、さいごに一貫性または堅固さ」
 
くりかえすよー!
 
「軽さ、速さ、正確さ、視覚性、多様性、
さいごに一貫性または堅固さ」
 
はい、もう一回!
みないで言える? 
 
「軽さ、
速さ、
正確さ、
視覚性、
多様性、
さいごに一貫性または堅固さ!」
 
おし、出来た☆
カルヴィーノ様の教えを胸に、行ってくるよー!!

 

 
ちょっと戻ってきた(笑)。
げんじつ、じぶんの書くものがこれにそっているか謎だけど。
軽さと速さは、それがないともう、21世紀文学(その後の千年紀文学)として通用しないからなあ。
こ れがしょっぱなにくるのは、モデルニテ、ポストモダン、その後の行方を占ってしまっている。スローな方向にはいかないって、過去へは戻れないと、カル ヴィーノは考えていた。あれだけ温故知新なひとだからこそ、それは、痛いほど、本当に痛いほど感じていたと思う。中世騎士物語の水平と垂直方向の語りを、 取って返して丸めて縮め、なおも引き伸ばして立たせ、しっかりと歩ませたあの力は凄まじい。
古典や中世文学を読んでいれば、まあ、昔へは返れないとしか言えないかなと、じぶんでも思う。文体の速度というものの推進具合、加速度は、次は「声(音速)」を超えて、光速の世界、またはそれを超える何かを志向してる。
だ からというわけではないけれど(わたしには迅速さとか素早さとかは備わっていないように思うから)、線状性さえも、もしかすると放棄するくらいの筆力があ ればいいとは願う。詩の次元の手前で散文がどこまでそれを保てるかとなると、吐き気がしそうなほど際どいレベルなのだな。ジャン・ジュネがそれに似たこと をしていて、伝達ツールとして機能するかしないかというのは、「小説」の、なんだ、小説が小説であることの本当に最後の線かもしれないし。というか、で も、小説はそれさえも許容できるから、小説、なんだよなあ。凄いことだ。けっきょく、ここがイチバン自由だから、ここに来る。ここに、いる。
「意 識の流れ」は、言語の線状性への叛旗ではないかと思ったりしている(文学者がなんていってるかは知らない。わたし、ちゃんと文学勉強してないし。ただ、小 説を読んでるだけで)。きれぎれの思考、時間の経過、流れ、軌跡を放棄して、けれど、テクストがどこまでテクスト足りうるのかって、ん~、わからない。
どこで、通じなくなるのか。耐用性汎用性その他がなくなるのか。踏みとどまっているのか。
あとは、時間。時空の問題。
瞬間、回帰性、永続。無限有限。拡散収縮。反復、逸脱。壷中夢、胡蝶夢。
パ ヴィチの仕事は、ジュネが断続的テクストを縦横無尽に配置し、網を張り巡らして時間を操作したあのやり方の別ヴァーションで、ジーン・ウルフが完全記憶と いう特異な主人公を用いて読者を煙にまくやり方は古典(から現代までの)小説技法の集大成であり、ラファティの語りは大いなる「夢の時間」を生きたひとの 特権的なそれ。
2009年はこればかり考えていたけれど、出来るかどうかは神のみぞ知る世界的にわかんない。手捌きが見えたからといって、やれるとは違う。ただ、見えなければヤルのは困難で、だから読むしか、ない。書くしか、ない。
   
かんたんに。 
重いものを軽く書いて本当の重みを出す超絶技巧。
インターネット世界の同時性にも負けない、否、超えるスピード。
情報の過不足のなさ、ある意味での節度。
テレビ、映画、漫画、ゲーム普及後の文字文学の使命。
たんじゅんなものは喜ばれない、当たり前に。もうすでにありとあらゆる文学があるのだから。
そして、それでなお、その全てを繋ぎとめてしかるべき「言いたいこと、言うべきこと」。
 
もう、引き返せないところへ来た。

by florentine(磯崎愛)

 

カルヴィーノ アメリカ講義――新たな千年紀のための六つのメモ (岩波文庫)

カルヴィーノ アメリカ講義――新たな千年紀のための六つのメモ (岩波文庫)