別名、『七星記』と『視界樹物語』用メモ。
たしか去年から読むよむと言ってたような気がするけど辻邦生読書にはまっている。
いや、ほんとは新しいのを読んで小説と物語について云々するはずだったのに、どちらかというと主題とかソッチ方面の興味が再燃。
個人的に、あ、いいところに還ってきたな、ておもってる。ことに庭についてはやらないと、だったので。
茶室搭載宇宙船スペースオペラなのでw 庭もないといけないし色々とめんどくさい。
近世初期の文人山荘における
視点場
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眺望の景観構造
―京都郊外の光悦寺・詩仙堂・大悲閣・木下長嘯子山荘・藤原惺窩山荘を対象として―
山口 敬太・出村 嘉史・川崎 雅史http://www.jsce.or.jp/library/open/proc/maglist2/00897/2007/pdf/B42D.pdf
これ面白かった!
図で見られるのがいい。中世と近世の違いとか、ああ、だろうなとおもってたけど、ほんとにこうなんだと。籠る、の感覚の違い。
茶室のひかりの操作、開いたり閉じたり明るく暗く、というのの意図して起こすあたり。闇に魔物が棲んでいた時代から戦乱の時代を生きた商人たちの合理主義を経ての美意識ってやはり違うとおもうのだ。ルネサンスがイタリア商人たちから、ていうのと似て。
琳派もあるけど、もともと本阿弥家は刀のめききですね。
そ れでその後も生きていく、という。このへんのバランス感覚とかむろんのこと美意識(て自分のことじゃないと使いやすいねw)が凄く好きで、ていうかまあ、 なんだろう、わたしホントに美術史家が大好きで画廊主と暮らしてること考えると、なんかこう、じぶんのなにかがダダ漏れな気がするよ、わらえない。
(よ うやく気がついたけど画家は誰も彼も好きじゃないけどたいていの美術史家は好きなんだよ、これ、これ、すごくおおきいよね! だってわたし、カラヴァッ ジョとか好きじゃないもん、絵はイイけど! 身を持ち崩す系の画家は腹立つから嫌いなのよ、うん。才能は酷使してくれたまえ、ておもうの)
もしかしてこれ今需要あるだろうか。日本刀の職人たち動画シリーズ。 http://t.co/n5lV4AlljD
— yen@金沢文フリ・え10 (@golden_wheat) 2015, 4月 1
ゲームのおかげで色々とありがたいです☆
それから石川丈山について。
その由来は・・・
正しくは「凹凸窠(穴編に果)」(おうとつか)であり、
「凹凸窠(穴編に果)」とは、でこぼこした土地に建てた住居という意味です。
この「凹凸窠」の中心には、中国の漢晋唐宋の詩家三十六人の肖像を狩野探幽に描かせ、頭上にそれら各詩人の詩を丈山自ら書いて四方の壁に掲げた”詩仙の間”を中心としているところから「詩仙堂」とよばれています。
公式サイト、美しいい!!!
これ写真。
これとか、
角倉了以と保津川下り、そして大悲閣千光寺 | 歴史ブログ | ようこそ保津川下りホームページへ(保津川遊船企業組合)
公式とか、
あと、このひととかも。
勝俊は、京都東山、叔母高台院が開いた高台寺の南隣りに挙白堂を営み、そこに隠棲、長嘯子と号した。この隠棲地には「歌仙堂」と称する小閣がありその二階には三十六歌仙図を掲げていた。後に石川丈山が比叡山西麓に隠棲しそこに詩仙堂を構えその二階に自ら選んだ36人の中国の詩人の額を掲げたのは、この歌仙堂に倣ったのである。
その後、長嘯子(勝俊)は挙白堂で1640年頃まで和歌を詠み続け、最晩年は山城乙訓大原野の勝持寺の畔に移住した。隠棲後も後妻か娘かは不明だが、家族と手紙のやりとりはあったらしい。
慶安2年(1649年)、同地で死去。墓は叔母高台院が眠る高台寺にある。遺された和歌作品の数々は、弟子の山本春正らによって編纂された歌文集『挙白集』に収載されている。
木下長嘯子(勝俊)は、小堀政一や伊達政宗といった大名をはじめとして、林羅山や春日局といった幕府の要職にあった人たちや、藤原惺窩とその息子の冷泉為景(叔父・冷泉為将の養子)、松永貞徳、中院通勝たち文化人らとも交流を持った。弟子には先に挙げた山本春正や岡本宗好、打它公軌といった人たちがいる。また、石川丈山、下河辺長流や山鹿素行にも私淑され、山鹿素行には住居の訪問を受けている。なお、後半生に吉備大臣入唐絵巻を所有していた。
なお、後水尾天皇が勅撰したと伝えられる集外三十六歌仙にも名を連ねている。
いっとき小浜について調べたのはもう何度も書いたのでアレですが、このひと小浜城主だったこともあるのだ。
DSpace at Waseda University: 木下長嘯子『挙白集』巻六「盆山記」および「月の宮人」読解
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/33516/1/GakujutsuKenkyu_Kokugo_59_Mizukami.pdf
「語り手」のイメージについて。
本歌取りと配置と時空の語りについて。プラトンの想起説とかでてきたよ。
二条派の否定とか、そんなのとか、あー、うーん。
読むかしら読めるかしら。
納涼図屏風
http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A11878
木下長嘯子伝雑考 その(一) | 九大コレクション | 九州大学附属図書館
木下長嘯子伝雑考 その(二) | 九大コレクション | 九州大学附属図書館
(一)のほうで沢庵の評がでてきて、そうなんだよねえ、このへんの一続きの流れがたぶん、まだ自分のなかで整理できてなくて。
沢庵和尚のPDFはっておいた、前回の。
活人剣ていうものの、なんていうんだろう、言葉が出てこないけど「変遷」というのではなく、うーん。
【も ののふ(物部・武士)】朝廷に仕える文武百官をいう。のち武を職分とするものの意となり【もの】とは兵器をいう。最も古い時代には物とは霊物であり【もの しり】とは霊界の消息に通ずるもの、【もののふ】とはもと邪霊を祓うことを掌る部曲の意であった。そのことを掌る氏族を【もののべ】という。
— 白川静 (@sizukashirakawa) 2015, 4月 1
つ まり茶人と武人と文人と商人と職人・芸人と宗教人と政治家(を天下人とするのはイヤで、じゃあなんて言えばいいかわからない、どうしよう困った語彙がな い)といったあらゆるものを横断する意識とかそのへんをどう飲み込むか、みたいなところが我が物になってない感じがして、ねえ。わたしの頭が悪いのだよな あ。けっきょく大きな視野を得られてないからかと。素描・デッサンが出来てないのだ。
戦争との距離の取り方、みたいなことでもあるし。当事者意識とかそういうのも含めて。
本阿弥家みたいな鑑定(めきき)があるとわかりやすいところはあるのだけど。
ということなどを考えている。
あ、藤原惺窩もだよ。
惺窩も天正十八年(一五九〇)に朝鮮国使のメンバーと筆談したり、文禄二年(一五九三)に名護屋で明国使節と質疑応答したりしている。慶長元年(一五九六)には、惺窩は明に渡ろうとして、京都を発し鹿児島に向ったが、出帆してまもなく暴風雨にあって鬼界ケ島に漂着し、結局渡明はできなかったらしい。
そのときの日記を記した「南航日記残簡」には、薩摩の大隅内ノ浦で、「その地の役人竹下宗意にルソン瑠璃盞(ギヤマンのコップか)で葡萄勝酒(ぶどうしょうちゅう)をもてなされ、呂宋(ルソン)や琉球の話などを聞き、蛮人(西洋人)の記すところの「世界図」を見た」という記事があるという。
藤原惺窩は『嵯峨野明月記』にも、でてきます。
うまく言葉にならないけど、
平安末期鎌倉初期とパラレルで安土桃山江戸のことを考えようとしているのだろうけれど、うーん、ちょっと、うん。
日本版の、パノフスキーの『ルネサンスの春』とかハスキンズの『十二世紀ルネサンス』みたいな本があればいいのになあ。わたしが無知すぎて知らないだけであるのかなあ、うーん。
網野さんではないのだ。いや、うん、面白かったけど。かなり小説のネタにはしてるんだけど(してます、ものすごくしてます)。ちょっと違うのだ。
アナール学派みたいなのってあるのかしら? 日本のアラン・コルバンみたいなのが読みたいの。
絹の輸入のはなしもある。
通商・外交史の「経済」方面について無知すぎて。いや、今はまあいいや。絹とか木綿とかのはなしはまた。そこらへんは元呉服業なのであるていどちゃらっと舐めたんだけど、他にもあるからねえ。
染色の革新についてとかも。
あとはけっきょく禅、だよなあ。お茶も禅だし。
謡い方面もそうだし、からだをつかってすること、武人だからねえ。
身体能力高いひとはほんと何やっても素晴らしいからなあ。
それと、
なんかわたし、さいきんほんとに「本編」書かなくてもいいかなあみたいな気持ちになってて。
おっきいはなし書くの疲れちゃったんじゃないかとw
いえ、おっきいはなし大好きなんだけど、おっきいはなしへの嫌悪感とか忌避感みたいなのもあって、書けないという力量の問題だけじゃなくて。
そのへん、
どうしようかなあ、みたいな。