がらくた銀河

磯崎愛のブログです。本館は小説サイト「唐草銀河」。

石井美樹子『聖母のルネサンス マリアはどう描かれたか』(岩波書店) メモ

あまりにもダイアリー放置しすぎなのでハイクのメモをはるという暴挙に出てみました、すみませんv
 

聖母のルネサンス―マリアはどう描かれたか

聖母のルネサンス―マリアはどう描かれたか

 

第一章 受胎告知――神の母から人の母へ

1 「受肉の神学」と新しい聖母子像

  人間感情の目覚め/肉体美の発見/裸体のイエス/幼な子の性器を触るおばあちゃん/母のあごを触る幼な子

 

ルネサンスという時代が、「人間性」の発見であることは周知のとおり。だから、身体性の強調誇示はあたりまえで、つまり、

「観者に誇示して恥じない立派な性器は、イエスが健康な男子に生まれついた証拠です」(P11)、神の子ゆえに人の子としての性器を見せびらかす必要がある。

「この背後には、人間復興というルネサンスの動向のほかに、ヨーロッパの王侯貴族の慣習がありましょう」(p12)

これは、なるほどと。

 

「しかし、イエスの裸体、幼な子が母のあごを触るしぐさ、耳に手をのばすしぐさ、母マリアや聖アンナが幼な子の性器や腿や足の裏に触れる、司祭が幼な子イエスの性器に触れるしぐさは、17世紀中頃を境に姿を消し、五百年以上ものあいだ忘れ去られてしまいました」(p16-17)

それらを、1930年代になるまで、公衆の面前にさらさず、または修正していったとつづく。

参考文献:Leo Steinberg,The Sexuality of Christ in Renaissance Art and in Modern Oblivion(1983 :Chicago and London : Chicago University Press,1996).pp147-148

イタリアの諸都市の美術館や教会で、上記のような絵をみたことがある。けれど、画集ではそうそう見つからない。こういう秘されたものがあるから、美術品を読み解くのは難しい。

本書ではそんな書かれ方はしていないが(『雅歌』については出てくるけど)、あえて、強く嫌悪感を催すことばをつかえば、「母子相姦」的雰囲気をそこに見るほうが、ルネサンス絵画を当時の視線で鑑賞する態度にちかいのかもしれないとさえ、思える。

なんでわたしがこんなんをメモしたかというと。 

  

ミケランジェロ『聖家族と幼児洗礼者ヨハネ(トント・ドーニ)』
1504〜06  Tempera on panel  直径 120 cm フィレンツェ ウフィツィ美術館
http://art.pro.tok2.com/M/Michelangelo/vv007.htm
 
わたし、どうも、この絵の幼児キリストの流し目と共犯者めいた聖母の見つめあい、そして聖母の手の位置が気になって気になって。

あのミケ様が、粗雑な仕事をするとは思えないから、絶対に、なんらかの意図があると思う。
これ、ものの本よむと、ヨセフが立派に描かれていて的なことかいてあるけど、ホントかいな? っていっつも思うの。
ドーニ家のトンドはいわくつきの作品で、たしか、この破天荒な絵がイヤだってドーニ家当主が断って、文句いうならじゃあやらんってミケ様がいって、でもやっぱり欲しいって頼み込んで取り返したはず。
とにかく、こんな図像表現はあの時代、とても珍しい。
それはおいて。

ミケ様のキリスト像ほか、彫刻における生殖器の扱いについては、先日よんでた

解剖学者がみたミケランジェロ (RV選書)

解剖学者がみたミケランジェロ (RV選書)


 

篠原治道『解剖学者がみたミケランジェロ』(金沢医科大学出版局)

http://www.tokyo-np.co.jp/book/shohyo/shohyo2009030802.html#
 

に詳しい。
そのほか、ヴァチカンのお仕事でもいろいろあって、いや、生殖器はどうでもいいんですけどね。じつのところ。
畢竟、わたしは、ミケ様のセクシュアリティが気になるのよね。

ああもう、ひとすじなわじゃいかんのう。