風邪ひいてシゴト休みましたorz
眠れること眠れること、ほんともー、どうしませう??
こころが鈍すぎるので身体にクルのよねーって感じだよなあああああorz
http://novel18.syosetu.com/n1558bq/ (縦書きPDFにしたり文字の大きさを変えて読むことができます)
モエドコロw(ツボった
「愛はあるけど理解はない」ふたりとその周囲のひとびとのはなしを二年半くらいかいてきて
多少理解もアルようになったかなあってラストへもってく予定なのに
わたしも、「なに褒めたかちっとも覚えてない><」という体たらく!
どんだけすれ違ってるのか、ていうwww
どうしませう、これ???
まあ結論からいうとどうもしない、というか、できない、というかw
それはともかく、
おはなしの語りやめる時間が近づいてるので終わるのでしょうが
なんか、
美しく終わらせたい、ていうわたしの「野望」を、
「モエドコロ」ひとつで打ち砕かれたのでwww
肩の力抜けまくった感じで終わるんだろうなあ、これw
(いや、補遺はそれが「目標」だから合ってるんだけど、ね
たまにハイク戻ってきてこうして予想外の何かを喰らうから、なああw タマランwww)
グランドフィナーレみたいなのは期待しないでね(その予定だったけど、もっとヒドイ落ちになりそうで不安だわ―www)
では、みなさん、Get Lucky ☆いま補遺以外、全編よみかえしたんだけど
夢うつつのウツ展開にドン引きしたw
なんですかこれ、ちょーイタイよ!!!(そうだよわたし、もどしながらかいてたんだよ、おもいだした!
とはいえわたし、文章ちゃんと上達してるわーーーー(じがじさんw
ていうかマジレスすると、
二年半かいて文章かわらなかったらマズイよね?(でも実は、そういう物書き多いのかもしらんなあ、なんとなく
恥ずかしいから書いとくけど、第三部のしょっぱなのほうの断章形式はまるでなってないのでわらえるくらい(第二部から意識しだして、始めたのが第三部)
今は楽々と使いこなしてるなあ、ちゃんとやれば上達するねええ(もちょっとキリキリ絞り上げたいが、まあそれはそれ、
断章形式が上手くできれば、長い物語の時間軸を自由自在に動かして圧縮できるのと、
世界観や場の切り替えを幾重にも同時に語りやすいんだよね
ところで昨日、時間操作について少しばかり書いた件、
ここから先は、この小説すべてを既読のかた、またはネタバレOKなかたのみおすすみくださいと注意書きして記すのですが。
「夢うつつ夢うつつ」は茶髪くん、黒髪君が交代して2話ずつ語ってる形式をとってラスト31は黒髪君語りで終わっているーーていうのを「補遺」と「エピローグ 夢の花綵(はなづな)」で実はすべて茶髪くんの書いたおはなしですよ、ていうオチをつけてあったりするわけです。
これはもう始めから、ほんとうにはじめから、わたしのなかには芽生えていたものです。このあたりの背後にひそむ「感情」は、うささんと交わしたグリーンルームの会話に根があるものだろうというのは間違いないです。ほとんど「記号」として在るかのように、あえて固有名詞を剥奪した彼らによってしかあらわされないおはなしで、いったいどれほどのことができるのか、読むひとに感じてもらえるのか、というのはきっとわたしの「挑戦」だったとは思います、今となってみれば。
作者は解釈すべきではない。なぜ、かついかに書いたのかを物語るのはかまわない。
「作業過程を物語る」
『バラの名前覚書』より
と、エーコ先生がおっしゃってますw
では、「夢うつつ夢うつつ」でわたしがいかに書いたかを少し説明するなら、黒髪君のパートは単線的であり、茶髪くんのパートはかなりめんどくさい複雑な、それこそ錯綜した時間操作をしてあります、てことかな。
それは何故か。
キャラの違いがまず筆頭にあがります、黒髪君は主役ですし(いちおうな!w)、その場その場で物事に対応しないとならないキャラで、対する茶髪くんは研究職で、つまり、いつなんどきでも「観察者」で「語り手」であるので、どうしてもこういうふう書かれるしかない(というのはくりかえすけど、茶髪くんがそう書いてるっていう話しですけどねwww)。
そして「入れ子構造」的なものがあそこに組み込まれている、ていうのもある、かな。回想を挟みこむ形式のための準備、というか。
とか書いてきて、だからわたしのはなし、読まれにくいのよねw ていうのはしみじみさいきん感じて、どうしたらいいのかなーって悩んでるところではある。だから小咄で練習してるともいえるかも。いや、ほんとはもっと難しい時間操作をやすやすとできるようにするための布石なんだけどさ。
でもわたし、単線的な時間操作しかされてない小説を愛せないところがあって、下に書いたように、それにはそれの洗練があるのは知ってるんだけど。
~かってにはんのう~
時系列にそってものごとを語るのは意外にとてもむつかしい。小説の文というのがだいたい 過去形なのは、手記日記の類から派生するのは、そしてプルーストのような作家が生まれてしまうのは、はたまた意識の流れなんてものが出てくるのは、「現 状」「現在」を語ることの困難に直面し続ける(いや~、ここに太字ゴシックにしたいくらいっすよ)ニンゲンの業みたいなもので、ある小説家などは、これか ら賞をとりにいく書き手たちにともかく「回想」を禁じるほどに、物事を時系列で活写するのはそれだけ力量のいる「語り」でものすごく大変なことなのであ る。
だから、「語り」という手法は、他の語でいうとわたしにはほとんど「再生」としか思われない。
ほんとうに物事に直面してる際に悠長に語ってはいられないからだ。
「言葉」でしかひとは自身の生を生きられない。
たまに、そう思ってぞっとする。歓喜と寸分違わぬことかもしれないけれど、おぞましくもあるのだ。
2011年に、などと書いていて。
というか、あれだよね。再生じゃなくて、「再現」だともう、アリストテレスの『詩学』から当たり前のはなしなのでなんだがw
芸術は再生 ルネサンス しか知らない。自然は起源だ。芸術が、枝の先に繰り返し白っぽい粘液をふき出す、あの小さな春よりも大きいことはけっしてない。
— キニャール (@PQuignard_Bot) 2014, 3月 4
うん、ほんとにね。
でもって、頷きまくりだったのがこれ。
「まあ、作者の意図が「正しい読み方」とは限らない。作者の意図とは別に「正しい読み方」ができてしまう場合だってあるだろう。 ロジェ・シャルチエが社会学者ピエール・ブルデューとの対談で言ってたこと。 「作家たちは皆、作品の受け取られ方をコントロールし、作品を理解する上での規範を押しつけようと必死の努力をしているわけです。ただ、そこで見失っては ならないのは、最も影響力を持つ書物とは、結局のところ無意識から無意識へと働きかける書物なのだという事実です」(『書物から読書へ』訳書p353)」
さすが、シャルチェ様v
前にもう貼ってあるので、もうここで引用しないけど。
ちょっと戻ってきた(笑)。 げんじつ、じぶんの書くものがこれにそっている... - florentine(磯崎愛) - florentine(磯崎愛) - はてなハイク
小説でやれることをもっともっと増やしたいんだよね、書けるものが増えて、もっと伝わるように、残るように、誰かのなかで生きること、生き延びることができるように、少しでも長く、深く。
倒れ伏していてばかりはいられませんw
でも、つかれたよ疲れたよ、うえーん><
けど、がんばれわたしがんばれわたし!!!