いま、編集S氏(わたしの本の編集をしてくれている友人)と電話ではなしてて、「居場所なんてないですよ」とパッキリ言われて目が覚めたような気がする磯崎愛です、こんばんはw
http://novel18.syosetu.com/n1558bq/ (PDFにしたり文字の大きさを変えて読むことができます)
まあしかし、このはなし、そういう意味じゃものすごーく「居場所」についてのはなしだよね。
なんかねー、はてな(ハイクは殊に)は居心地いいんだけど、生まれてこのかた、身の置き所の無さ、ていうのを感じ続けてるような気がするなあああ。
たいてい集団ってのに馴染めないんだよ><(←だめなひとです)
そうやって考えて、だからわたし小説かいてるんだよね、ていうふうにいつも落ち着いて、それでようやくほっとするんだけど。
だから、わたしの小説にはそういうひとばかり出てくるし、そういうひとについて書いてくれてるはなしが好きだったりする。
てことで、伴走メモです。
再掲
「だが私はファシストではない、私は理性を信じるし、話しあいを最上の進歩の手段と考えている。だから憎しみよりも 正義を好むのだ。ゆえに、私はこの本を書くにあたって、犠牲になりましたというあわれっぽい調子を捨て、証人が使うような、節度ある平静な言葉を慎重に用 いたのだ。私の言葉が感情を抑えた、客観的なものになればなるほど、それだけ信用の置ける、有意義なものになると考えてのことだった。ただこうすることに よってのみ、裁判に臨む証人は任務を果たすことができる。つまり判事に判断材料を提供できるのだ。そして判事になるのは、あなた方読者だ」
プリーモ・レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない』(朝日選書)「若い読者に答える」より抜粋
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この文章には幾つかの反論なり反撥なりを招く可能性があると意識しながらも、やはりわたしはこういうものの考え方が好きだし、そしてそれをきちんと実行することができるひとを心の底から尊敬している。
さらには、他者にその「強さ」を望むことと自身にそれを課すことの意味や意義はまるで違うことくらいみな知っているに違いないと嘯いて、いつでも「わたしは」とくりかえし「あなたは」と問い返せるだけの「力」がじぶんにあればいいと願っている。
http://h.hatena.ne.jp/florentine/225870907450201609
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あえて記すけれど、レーヴィは自殺している、らしい
飽きもせず、キニャールぼっとさんを眺めている
小説を書くのよわたし、と思いながら
こっちもはっておく、繰り返し過ぎと思われてるかもしれないけれど、でも、わたしには本当にほんとうに、大切な言葉なのだ。
「ラ トロは理(ラティオ)と情(アフェクトゥス)はたがいに切り離すことができないと言い――正確を期すると《in ratione habere aliquem locum affectus》〔理にはその一部に情念が含まれている〕――また、理が先走ってしまったため、情はそれにぶらさがっているとも言い、最終的には「理に かなった思考はおそらく、より情の深いものから作られたものだ」とも言った。」
パスカル・キニャール『アプロネニア・アウィティアの柘植の板』「理性」より抜粋。
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この境地にまでイケたら最高なのだが、矮小な自身に高望みしすぎな気もするので、
今日のところは、この本を『音楽への憎しみ』で教えてくれたキニャールに感謝を。
てだけで終わらせておく(笑)。
by florentine(磯崎愛)
なんども書いているのでなんだけど、レーヴィを読むきっかけはキニャールのこの本でした。
アウシュヴィッツは終わらない―あるイタリア人生存者の考察 (朝日選書)
- 作者: プリーモ・レーヴィ,竹山博英
- 出版社/メーカー: 朝日新聞社出版局
- 発売日: 1980/01
- メディア: 単行本
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はなしはもどって、
編集S氏に「居場所がない、て思ったらそこから先がひらけるんですよ」と妙に哲学的なこともいわれました。うん、だよね。そう考えると、ちっちゃいころからそう思ってて、それでわたし、先が拓けてきたのかしら? きたのかな、きたような気もするな。
少なくとも、「小説」というもの、「読むことと書くこと」のあわいにじぶんの居場所は確実にある、な。
これも、はっておくね。
「他者に自分の愚かさをあずけない」
もう一回あげておくと、
「興味深いのはここでドゥルーズが、とり わけ明確に哲学と文学の、そしてさらに、「最悪の文学」と「最良の文学」の区別を立てていることである。「最悪の文学」とは愚かさをもっぱら他者に投影 し、愚言集を編み上げて自足する文学である。「最良の文学」とは愚かさの問いに取り憑かれ、それに「宇宙的、百科全書的、認識形而上学的次元を付与し」 「哲学の戸口まで導くことのできた」文学である。哲学はこの問いを、真偽の二項対立の権威にそれを従属させることなく、言い換えれば、愚かさを誤謬と混同 することなく、受け取ることができなくてはならない。」
~序章「愚かさの寓話」より~
鵜飼哲『応答する力 来るべき言葉たちへ』 青土社
じぶんの問題をひとに投げてはダメだという単純さと、
じぶんは何もわからない、何も知らない、理解していない、出来るはずもないという恐れを抱えながら、一生涯、それについて学び、考え続けることではないかと思っている
というと、なんかかっこいいけど、
ほんとはそうじゃなくて、
わたしのものをひとにはやらん、っていう吝嗇さと、
ぐだぐだ考えるのが好きってのに尽きるとも思う
一昨日、こんなにアタマ悪いのになんでって愚痴をこぼしたけど、でも、でもね。
わたし、そういう「問い」から逃げるのはイヤだし、苦しくてもツラくてもしがみついて、じぶんのそういう臆病さや怠惰には断固として否といって自分を奮い立たせていこうとおもう。
「読むことと書くこと」の間には、わたしの居場所はちゃんと、ある。