がらくた銀河

磯崎愛のブログです。本館は小説サイト「唐草銀河」。

プリーモ・レーヴィ『アウシュヴィッツは終わらない』読了

 
オデュッセウスの歌」の章のところで泣いてしまった。スープを運びながらアルザス生まれのジャンに『神曲』の一部を訳しながら伝えるところ。確信はないけれど(原文を知らないし、わたしには推測不能なものもあるので)、この本の章題のいくつかはなんらかの文学作品等(聖書や賛美歌含む?)のもじりなりそのままになっているのではないかと思われる。「夏の出来事」「善悪の彼岸」、さいごは「十日間の物語」だ。
わたしは、本を読む際にその内容そのものよりもそれがどう書かれているかという「語り」がいちばん気になる。技術的な問題を問うているだけではない。そこにこそ、著者の「考え」が的確に、恐ろしいほどにあらわれてしまうからだ。この唐突な断片、ともすれば読みにくくぎくしゃくしたと受け取られそうな繋ぎ、章題、そして原題「これが人間か」であることをもってして著者の言いたいことは明らかであると思う。
http://h.hatena.ne.jp/florentine/225870906963087109

だが私はファシストではない、私は理性を信じるし、話しあいを最上の進歩の手段と考えている。だから憎しみよりも正義を好むのだ。ゆえに、私はこの本を書くにあたって、犠牲になりましたというあわれっぽい調子を捨て、証人が使うような、節度ある平静な言葉を慎重に用いたのだ。私の言葉が感情を抑えた、客観的なものになればなるほど、それだけ信用の置ける、有意義なものになると考えてのことだった。ただこうすることによってのみ、裁判に臨む証人は任務を果たすことができる。つまり判事に判断材料を提供できるのだ。そして判事になるのは、あなた方読者だ」
プリーモ・レーヴィアウシュヴィッツは終わらない』(朝日選書)「若い読者に答える」より抜粋

  
この文章には幾つかの反論なり反撥なりを招く可能性があると意識しながらも、やはりわたしはこういうものの考え方が好きだし、そしてそれをきちんと実行することができるひとを心の底から尊敬している。
さらには、他者にその「強さ」を望むことと自身にそれを課すことの意味や意義はまるで違うことくらいみな知っているに違いないと嘯いて、いつでも「わたしは」とくりかえし「あなたは」と問い返せるだけの「力」がじぶんにあればいいと願っている。または、
 

「ラトロは理(ラティオ)と情(アフェクトゥス)はたがいに切り離すことができないと言い――正確を期すると《in ratione habere aliquem locum affectus》〔理にはその一部に情念が含まれている〕――また、理が先走ってしまったため、情はそれにぶらさがっているとも言い、最終的には「理にかなった思考はおそらく、より情の深いものから作られたものだ」とも言った。」
パスカルキニャール『アプロネニア・アウィティアの柘植の板』「理性」より抜粋。

 
この境地にまでイケたら最高なのだが、矮小な自身に高望みしすぎな気もするので、
今日のところは、この本を『音楽への憎しみ』で教えてくれたキニャールに感謝を。
てだけで終わらせておく(笑)。

音楽への憎しみ

音楽への憎しみ