がらくた銀河

磯崎愛のブログです。本館は小説サイト「唐草銀河」。

岡田温司『ミメーシスを超えて―美術史の無意識を問う』再読のために


ミメーシスを超えて―美術史の無意識を問う

ミメーシスを超えて―美術史の無意識を問う


「美術史の〈父〉は誰か」――。
ゴンブリッチにとってはヘーゲル、ポール・バロルスキーにとってはヴァザーリ云々。

なるほどねえ。このエピローグを始め(?!)、各章それぞれなんとも面白く読みました。
 


第一章 「天才と狂気は紙一重」ロンブローゾと日本
第二章 「私」を表象する 自画像再考
第三章 ペストと美術 十四世紀のトラウマとその兆候
第四章 「傷」のメトノミー あるいはカラヴァッジョの《聖トマスの不信》をめぐって


一章は、この言葉の受容と変遷について。漱石の見慣れた写真、あのおなじみの《考える人》の図像についてや、医者だった鴎外がこの主張に否定的だってところも納得したり。

二章は、作者そのものに迫りたいひとには興味津々の話題。この捩れっぷりこそが、自画像か。

三章は、ミラード・ミースの著名な研究に端を発している。この章は、とくに興味深く読んだ。ピサにある絵を見たことがあるし、オルカーニャ等、地獄の描写はサンドロの《神曲》素描の先行作品であると思ってきた。トラウマと癒し、または消費と蕩尽という、非常に今日的な話題でもある。

四章は、本文をドキドキしながら読むのがいい。美術史というのは、ある種、ミステリに似ているところもある。はじめてパノフスキーやヴァールブルクなどを読んでいた頃、ああ、これは謎解きの楽しみでもあるなと感じた。もちろん、著者はそれこそを否定するかもしれないけれど、やはり、刺激的だと感じてしまう。
  

「母の機能」から「美術史」を語りなおす試みにわたしは大いに共感し、自分がぼんやりと、ほんとうにうすらぼんやりと、ちっともまとまらない頭で考えていたことを、こうやって語ってもらえると、本当に楽しい気分になるのです。

「言葉とイメージ」について想いをめぐらしながら、
また、この著者の本の頁をめくることだろう。

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2008年に読んだらしい。らしいってなんだ、って感じだけどw
もうちょっとマトモなこと書きなさいよって思いながら再掲。
いろいろ言いたいこともあるが、まあ、いいや。
小説で、書く。
ていうか、ディディ=ユベルマンの仕事、否(というかそれはするけど)、
ヴァールブルクの仕事を来年には必ず真面目に追いかけたいという誓いをたてて。