がらくた銀河

磯崎愛のブログです。本館は小説サイト「唐草銀河」。

「重み」ということについて延々と考えている。

たしか去年のことだったように思うが、「軽薄」と言われたことがある。そりゃそうだろうさ、いったいわたしにナニを求めてるんだい、まったく! と思ったが、いった人物はその後の言動を鑑みるとわたしよりずっと「軽率」だと思われた。ひとは、誰かを非難したいとき、わりあい「己」の短所が目に付くものではなかろうか。少なくともわたしはその傾向が強い。完全なる他者の「瑕」には鷹揚なものだ。目に付くことはさほどない。つまりはほうっておける。それだけ興味がない。畢竟、憎悪より無関心をこそわたしは嫌う(余談だが、欠点というものは概して目立つのだ。ソレを指摘するのはたいして意味はないと思う。わかりきっていることを言う必要はない。けれど少ない、あるかないかの長所や美点をあげること、それを見つけて褒めることがどれほど大変なことで、どれほどそのひとのためになるか。わたしは、そういうひとになりたいが、これはかなりむつかしい。それこそ観察力や洞察力、感性ってやつがいる)。
ちなみに、じぶんの「薄情さ」については幼少期より自覚し家族友人彼氏その他に非難されまくってきた程度には冷たいしツレナイしやさしくないと認めるにやぶさかではないのだが(って、なんか言い訳臭いわね、おほほ)、そのときの感情を思い浮かべると、わたしはそんなにカルクはないと、断固たる反撥を覚えたようだ。
さりながら、おのれの「すれっからし」度合いに関しては人後に落ちないと述べてもよさそうに捻くれているので(いっけん素直で頑固な分、捻じ曲がってるとこは凄いことになってるのだ!)、そこらへんを加味した「上っ面さ」加減を考慮してみると、やはり「軽薄」で合ってるのかなあと思わなくもない。とすれば、そのひとの言葉は真実をついているがゆえにわたしには痛みとなったと考えたほうがよさそうだが、今となってみると、「痛かったかしら?」という程度に記憶は磨耗していて、ただ「言葉」の用法、使用の態度についてばかり思い出されるのであった。申し訳ないとしか言いようがない(おそらくはわたしのためを思って、という気持ちも幾分かはあったであろうとおめでたくわたしは考えているのでね)。だが、わたしはそういうひとなのだ。
蛇足になるが、わたしはわたしを軽薄と罵った人物が嫌いではないし、いまでも「面白い」ひとだと思っている。もちろん、オモシロイとはたいそうな褒め言葉であり、わたしとしては「軽い」扱いはしていないつもりなのだが、相手がどう思っているかはわからない。
ところで、「軽い」というのは人間存在においては「いない」「いらない」「いてもしょうがない」に繋がり易いゆえにわたしには許し難い単語なのだ。たえずひとの命、その存在は「重く」なければならない。というような世界観をわたしは築いているし、ゲンジツはそうでないのかもしれないと考えるのは酷く苦痛だ(が、ゲンジツはソウなのだろう。だからこそ「否!」と言い続ける必要があるし今後も言い続けるのだが。しかしこれはまた、きわめて西欧的な価値観なのであろうとも考えているし、ある種の固執、偏屈さの一種であると思わなくもない。まあ、勉強する。「死は中断」といったのはキニャールだったはず。ああ、読みたい本は山積だ。嬉しいなっと! 涙)。
そういえば、カルヴィーノ様が「軽さ」をまずさいしょに取り上げたのは、「重さ、重み」を裏付けるためのソレであり、それはもう19世紀的に書くことが許されないと思われる現代作家へのクビキであったろうか。文庫版になるそうなので、また読む。

にしても。
「大嫌い」とか「いやだー!」とわたしが叫んでいる場合、だいたい「大好き」「愛してるー!」なわけで、世の中こんなにわかりやすい事例ばかりでないのがツライところであるが、それだからこその「人生」ってやつか。
ことほどさように他者の思惑、ほんとうに言いたいことを理解するのは至難の業なのであり、それに比べれば小説の「読み」などというやつは難易度の低いものだと個人的には思っている。だって、それなりに努力して習熟すればどうにかなる。現実は、そういうわけにはいかないもの。だから困るのだ。困るが、この困惑を手放してあっけらかんと生きる気もないのは事実。
ままならぬ、ほんとうにままならぬモノと相対するのはいったいどうしたらいいのだろう。それが《あんがーじゅまん》だと思うのだけど、わたしはジュネのように高貴なひとではない。
とりあえず、この広い宇宙の片隅で、わたしは延々命のある限り何かをずっと叫び続けるよ。 

さて。
今日は、一年ほど前、hebakudanさんに「東京はソメイヨシノがきれいです」と書き送った日である。さらりと流して書いたような一文から、わたしがそこに篭めた気持ち、その届けたいこころの素朴な「重み」をまるごとすくいとってくださった日。

あれからわたしは誰かに何かを伝えることができただろうか。
わたしの「小説」は、誰かを生かすことが出来ているだろうか。そのくらいたいそうなことがしたい、そういう作品を創りたいと希うが、たぶん、わたしはじぶんの「小説」があるがために生き延びているのだから、それだけで実は、十二分に満たされているのかもしれない。
あの揺れのなか、わたしがまず初めに思いを巡らしたのは、じぶんの「小説」であったことをここにこっそり記しておく。
薄情極まりないが、それがわたしの「真実」だ。