がらくた銀河

磯崎愛のブログです。本館は小説サイト「唐草銀河」。

めもめも〜♪

・いちばん最近はじめた長編小説(歓びの野は死の色す、2008年)がいちばんハチャメチャである(やりたいことやるように途中で枷を外した)点で、たぶん、わたしはわたしの行く道を間違ってない。

・それから、基本的に大長編のつくりは三つ、たいていは「三重構造」で語っている場合が多い。時空と語りの人称ともに。蝶番でまとめやすいから。

・そういう意味でも、わたしが『恋する虜』を愛してて範と仰ぐのは道理。くりかえされる反転を支える語り(騙り)の真ん中に、またはジュネのあの小説的に叙述(笑)するなら、左右前後の頁の綴じ糸のように「ジュネ」がいる。登場人物としての彼、事件、描写、オリエントとオクシダン等を統合(? もっと相応しい言い方がある気がするがとりあえず)語り手の彼が。

・でもって、わたしはまだこのやり方を完遂できてはいない。完結という小さな枠のはなしじゃなくて、存分に力を振るえるほど出来ていない。という意味で。

・反転の方法がアクロバティックなのはピンチョン、それとエレガントさでいえばスティーヴ・エリクソン。でもわたし、エリクソンはそれゆえに読めてしまう。読めてしまってもつまらなくないのはピンチョンの「力技・馬力」だなあ、あれは。物量とも強度ともいう。

ピンチョンは迷路ではない。これ以上、わかりやすいはなしはナイというくらいわかりやすい。わかりにくさという「敵」を見据えているわけではない。敵の正体は知れている。彼はアメリカを書く。そうでなければいけないし、そうであることを自身に課して疑わない。もしくは疑っていてもそう書くことを許さない。オーウェル以降の作家として生まれたのだから、それはアメリカの歴史を知る自身の家系を長い年月かけて受け入れたピンチョンの理性、否、根性かも(笑)、だ。矜持と呼ぶには当たり前すぎる。

ジーン・ウルフは。そう、ジーン・ウルフの疑い、あれは彼が従軍し、その結果なにを見たかを思わせる。

ラファティもそう。彼の世界は壊れている。途轍もなく美しいが、壊れている。彼の不器用な手から転げ落ちた何かは、けれどきっと美しくはないものだ。取り落としたのは、彼の咎でない。あの手に神はそれを触れさせたがらなかった。

  

わたしは、じゃあ、どうなのだろう?

わたしの書く世界はどんなだろう?

これが言えるようになると「客観視」ができて「一流」、なんだろうなあ。

うぐうううう。

 

・ああ、あと、夢想と現実ってはなしもあるが、それはもうここで言うには力尽きた(笑)。たいていの作家は「夢想」を書く。そこから出るのがわたし好み。重い、小説が好き。ジュネのいう、「重み」が。そういうものが自身の書くものに備わっていればいいと、いつも、希っている。