幾分なりとも美を意識した書物を書く者は、声の亡霊をおのれに引き寄せてしまう。そして自分ではその声を発することができない。
読了。
いろいろと、腑に落ちた。
個人的な諸問題について他。
大雑把でキャッチーで、文字通り引っかかり処のある、わかりやすい、または語られやすい、ただ声の大きさだけが取り柄の文章が夥しく溢れるなか、
誰がこの、ひそやかな、冷たい、でもとても精緻でこれ以上なく確かな、それでいて怖いほど熱く、けれど極限まで追い込まれ(誰を?)追い込んだ(何を?)抑制のきいた「声」に耳を傾けるだろう。
誰も、何も、聴かない。聴くことができない。
それはきっと、「声」でさえない。
つまりは、言語にさえならないものたちのざわめき。
「震え」。
無理やり捕まえようとして手を伸ばすと、それはなくなる。
「死」が捕らえがたいように。
霧散し、四散し、消え失せる。
そのように定められているともいえるくらい、儚いもの。
でも、確かに存在する。
「言葉」より先んじて。
ならば。
じっと耳を澄ましていれば、
あちらから、必ずやってくる。
否、
すでにしてそれはわたしの内にある。
さればこそ、「だいじょうぶ」とは言わないけれど、「準備」は整っているはずだ。
今は、そう信じている。
キニャールを好きだと言えなかったわたしはもういない。
2010年、わたしのもっとも愛した本は、『アマリアの別荘』なのだから。