がらくた銀河

磯崎愛のブログです。本館は小説サイト「唐草銀河」。

そのひとの名は

行ってまいります」
そのひとは、このブログのコメント欄にそう言いおいて出かけられた。
少し前には、「遅れても必ずブログを拝見するよ。元気になったらスターのてんこ盛りで襲撃してやるから待ってて(笑)」と声をかけてくれた。
その後ブクマで、「いつか創作小説を拝読してみたいな」との言葉を頂戴し、跳ね上がるほど嬉しかった。
だから、5月8日の誕生日、わたしは小説サイト『唐草銀河』を新しくした。目の状態がよろしくないと書かれていたので、お戻りになったときに読みやすいほうがよろしかろうとイロイロ悩んでテンプレを選んだ。
ところが。
その夜、そのひとに「お帰りなさい」を言えなくなったことを知った。


「血止め式」筆者、死す。 - 血止め式 「血止め式」筆者、死す。 - 血止め式


昨夜、ここで泣きながら届く宛てのないお便りを書いた。消えたけど。
きっと、わたしの書いた、涙の跡が点々と滲む読みづらい手紙のような文章がお気に召さなかったのだと思う。
そのせいか「保存する」を押すやいなや、それらは何処とも知れぬ宇宙の彼方へと吹き飛ばされた。音は、しなかった。「すかしっ屁」みたいに(笑)。


おそい・くさい・だるい・しかも何もないてなブログやってる私が大きな声で言えるこっちゃないので、いっちょ屁でもしておくか。ぷぅ。
ブログすかしっ屁 - 血止め式 ブログすかしっ屁 - 血止め式

そのひとは何よりも、「抑制」というものの持つ「美意識」を重んじる方だった。「書く」という行為その他に、自制や自律、弁え等を尊ぶ方であったことは、選び抜かれて残された記事の数々に明らかだ。そして、こんな半可通の批評めいた「身のほど知らずのゴーマン」をぶちかますと、死人に口なし、くらいのことはアチラから笑顔で送信されそうなので、いただいた「ブクマに返信」コメント等を並べて言い訳しておきたい。
(とはいえ、そういう「特別配信」は夢のなかででもいただければ嬉しいです!)


「手先だけで物事をすると見るに耐えない」は言われてみるとなるほどその通りですね。自作小説に取り組まれているflorentineさんとは違って私などはそれこそただのしょぼい日記ブロガーに過ぎませんが、自分の肉体が年々加齢していくのと同じ速度で一年ごとにちゃんとトシを取っていくような文章を書きたいです。いくつになっても発話の中身がつるんつるんで三百六十五日盆正月並みに「人生、愛だろ恋だろ涙だろ」式なおめでた顔をしたのうのうたるご自分史開陳日記にはもとより用がない。自分を抑制してみない人は他人の側の抑制のほどを解さないだろうように、自分の全部をあけっぱなし出しっぱなしにしないと他人に何も伝わらないと思う人って、自分が読む立場になった場合でも他人が控えめに示す小さな断片文にはおよそ洞察力もクソも働きゃしないんじゃないかなんて時には思ったりする。
わらいかわせみに話すなよ - 血止め式 わらいかわせみに話すなよ - 血止め式


ああ、こういうことを100字のブックマークコメントに対する返信で書いてくださる方の、どこが一体「しょぼい」んだろうか。
しかも、こんなことをしていては、わたしが「自前」をすっかり忘れてものを書いていると叱られそうですが、もうひとつ行っちゃうぞ。

「老いのどさくさ」は、幸田文が父露伴の最晩年を語るさいに用いていた言葉です。あれほど厳格だった父親が終焉まぎわにあられもなく見せた、その人生の来し方の裸体というものを「老いのどさくさ」と言いきったところに、「父と自分」、「世間と自分」とを切り分ける幸田文の清廉な「結界」があるんだよね。読者に向けて自分の家族や身内についてデレデレと語ることへの照れをちゃんと身にまとえる、そういう種類の「身じまい」の美しさを持った女性は今どきめったにいないと感じるだけに幸田文の表現にはホッとします。シムノンの小説はメグレ・シリーズより文学作品のほうが私は好きですが、中でも『仕立て屋の恋』が良かった。『猫』は後半の処理に何かもうひとつ決め手が欲しいところでした。コメントだけを拝見してこんなふうに言わせて頂くのもはなはだ図々しいようですが、florentineさんの柔軟でオープンな感受性はすてきですね。
ジジババがいっぱい(3)老いのどさくさ - 血止め式 ジジババがいっぱい(3)老いのどさくさ - 血止め式


こちらが欲する情報をいつもちゃんとご存知で、丁寧に教えてくださる方であった。わたしが非常にわかりやすいひとだという理由もありましょうが、むろん、それだけではないのはお察しのとおり。
そのひとはまた、言葉の表層ではなく、その裏、奥底や背景、その出で来たる想いの全てを、ひとつひとつ掬い上げ濃やかに読み尽くそうとする方だったから。

一つの事柄を多角的に複眼的に見ながら、考えるところはつきつめて考え、笑えるところはおおいに笑う。多様な話題を無尽に横断できるflorentineさんの明るみのあるご性質は、こうした読書体験による精神運動の積み重ねから時間をかけて作り上げて来られたものなのだろうと感じ入ることしきりです


我が事についてながら、恥ずかしげもなく列記した。じぶんに傾けられる、手触りのたしかで温かな言葉は得難いものだ。そして、「明るみのある」という語を選んでくださったことに泣きたくなるような気持ちになる。「明るさのある」ではやや軽く、音が開きすぎている。そしてまた「明るいご性質」となれば、ともすれば「つきつめて考え」すぎて身動きの取れなくなるわたしの性質にそぐわない。
ご入院の前日当日*1、こんなにもおこころを砕いたコメントを頂戴することができて、わたしはほんとに果報者だ。切なくなるほど嬉しかったのと同時に、居住まいを正す気持ちで文字を打った。なにしろ、「結局、人は自分が書ける水準でしか読めない」とおっしゃるような方なのだ。
けれどその緊張は、わたしには途方もなく快いものだった。

■病みつきボイス/4月30日 金曜日 夜6時
夕方まで付き添っていた夫が家に帰る前にケータイでネットに接続し、florentineさんのブログのコメント欄に書かれているというflorentineさんからのお返事を読み上げてくれた。


florentineさんのトラックバックに対する私の感想はやはり少し僭越に過ぎたのではないかと不安だったが、florentineさんのご返信に感じられる「気にしない力」が嬉しい。でも同時にそれは「気にする力」のことでもある。本当は気にしたからこそflorentineさんはあのようにあえて真っすぐ受け止め返してくれたのだと思う。私も悩みながら書いた感想だった。florentineさんというかたの奥まで一杯一杯踏み込んでみたかった。florentineさん、勝手な言い分ばかり書かせてもらったのに恨まずにいてくれてありがとう。
「血止め式」筆者、死す。 - 血止め式 「血止め式」筆者、死す。 - 血止め式


「ありがとう」。
ひとは、一生に何回くらい、こういう「ありがとう」を授けてもらえることがあるのだろうか。文字通り、あり難いことだとはわかる。わかっていると、思う。
8日の夜は寂しくて悲しくて、翌日、目の形が変わるほど泣き続けた。9日は、ほかのみなさんのトラックバックやブクマ、そして何よりも「血止め式」を読んで気持ちを落ち着かせた。辛いときも悲しいときも、わたしは「読む」ことで己を取り戻してきた。
生きていくのにどうしても必要なもの、わたしはそれを「文学」と呼ぶ。

私の読書録に「文学」というジャンル名はない。「私はこう思う」と言うために書かれたものは、すなわち「私は他の人々とはかくかくしかじかの点においてこう異なる」ということを述べるものでもあって、そこに何らかの他者批判性が含まれるのはもともと避けられない。ゆえに、いかにそれを読んでもらえるかは筆者の表現技術の磨かれ方にかかってくるわけで、その文章に研鑽や創意工夫のあるものには必ず文芸的味覚性が備わっている。つまりは随筆も評論も広義の「文学」なのである。

こんな本が読みたい - 血止め式 こんな本が読みたい - 血止め式


昨日今日、わたしは思う存分、そのひとの書いたものを愉しんだ。読み進むうちに涙もとまり、思わず吹き出したところもある。そのいっぽう、破裂するように泣き伏した記事もある。あえてブクマしなかった文章も、自分の「言葉」に対する記憶と感受性を試すように、抜き書きしなかった一文もある。
よい文学が再読や再々読を要求するように、わたしはきっと、そのひとの日記をこの先もずっと読み続けるに違いない。
たくさんのファンがいらっしゃるのは知っている。でも、もっと多くのひとに読んでもらいたい。そう思って、リンクいっぱい張りました。
読んだから書く、そうやって繋がっていくのが「文学」のひとつの在り様だと思うので。
 
そのひとの「言葉」は生きている。
WEB上に、そして勿論、わたしのなかに。その奥のいちばん柔らかく根源的なところで、しっかりと強く、息づいている。
 
そのひとは、わたしには「文学者」に見えた。
名前を、hebakudan(屁爆弾)という。







と、ここで終わればかっこよいのでしょうが。
でも。
やっぱりお伺いしたいのです。それでもって、わたしの野望もお伝えしたいのです!

「hebakudanさん、今回の文章、いただいたアドバイスをいかしきれておりますでしょうか? 
楽しんでもらえたら嬉しいです。
わたしのほうこそ、「ありがとう」ございます。お話できて、本当にほんとうに幸せです!!
いつか、わたしの書いた「本」をお届けしたいと願ってます」


おしまいになりましたが、hebakudanさんの「言葉」を届けてくださった御夫君様と御姉上様に改めてお礼を申し上げます。読むことができて、生きる糧となりました。それこそ「抑制」を欠いた大仰な言葉に聞こえましたらすみませんが、そのくらい大事なものを頂戴したと思っております。深く、感謝しています。

*1:おうちを出られる直前だったのでしょうか?