「東京はソメイヨシノがきれいです」
きょう、会社のちかくの公園でサンドイッチを食べた。
もちろん独りで。
桜が、咲いていた。
七分咲きくらいだろうか。
綺麗だった。
わたしよりもずっと若い、ちいさな子供連れのお母さんたちがいて、子供は走り回ってたけど、お母さんたちはのんびりしてて、その姿を見ながらぼんやりと息抜きができた気がする。
ベンチに座って思い出していたことがある。
もう6年も前になる。
コメント欄にいただいた言葉を引用する。
今年4月4日の「血止め式」の記事、「イチレツランパン破裂して」に、florentineさんから一通の手紙コメントを頂戴した、というところからメモは始まっています。この頃、妹は得体の知れない顔面の痛みに四六時中苦しんでいた上に、地元の通院先から都内の大学病院への紹介状を出されたことで病魔への不安がいや増していた頃でした。「そんな折りだっただけに、東京はソメイヨシノがきれいです、と書かれたflorentineさんのその一行にえもいわれぬ慰めを感じた」と妹のメモは続きます。「桜見物どころではない人間はいくらでもいる。それでも桜はちゃんと咲いている。人間さまがどうあがこうとも、この地球で咲くものは咲き、降るものは降り、死ぬものは死んで、生まれるものはちゃんと生まれる。そうだ、これほどの自然生命の循環の中に、いっそ全部をまかせてしまえばいいのだと初めて思った。ただただ痛みが怖くて身を硬くすくませていた私の心奥が、florentineさんの手紙のその一行できれいにひと拭きされたような気がする」と。
いまでも鮮明におぼえている。
あのとき迷いにまよって「東京は」と書きはじめたときのじぶんの気持ちを。
もっと違う言葉、というより、それを選ぶ際の「方法」「手段」その他の何かもあるのかもしれないと考えもした。
けれど、あのとき、わたしが持つ言葉のなかから一番のものをさしだしたつもりで、そしてそれはそのとおりに受け取ってもらえたのだとわかった。
言葉が通じることがある、という奇跡みたいな体験をさせてもらったのだなと、きょうベンチに座りながら思い返していた。
わたしは家族や知人友人と言葉が通じないことが多く、「書く」ことでどうにか言葉と世界の折り合いをつけてきて、生きているひとたちのなかで孤独ではないと本当に感じるようになったのはインターネットの時代になってからのような気がする。
hebakudanさんのブログにあって、読んだもの。
貼っておきます。