がらくた銀河

磯崎愛のブログです。本館は小説サイト「唐草銀河」。

104  いつか、誰にも愛されなくともしっかりと生きていく主人公のはなしを書きたい

kakuyomu.jp

色々あって、あんまり元気じゃない。いま書くじぶんの文章が平らにだらっと寝ている感じがする。起ちあがらない、というか。

頭がうまく働かないので、更新作業の下準備とかばかりしている。まあ、そういうのも必要なので悪くはない。

『夢のように、おりてくるもの』 | CRUNCH MAGAZINE クランチマガジン - 書き手と読み手をつなぐSNS

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コラボ「花うさぎ」相方うささんの、「ピンクのエプロン」完結です!
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酸いも甘いも噛んでみてね☆ [連載中]

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ともによろしくお願いします!

 

さくっと、伴走メモにいきます。

愛と正義
ボール・リクール聖書論集2

【目次より】
宗教の哲学的解釈学?――?カント
  根源悪/宗教の反論/表象/信仰/制度
問題の《黄金律》
聖書の言説における声と書の絡み合い
  ? 言葉と書の隔たり/? 三つの書/? 聖書とそのテクスト外
「理解を求める信仰」?――?その聖書的先例?
  アンセルムスによる神の名指し/
  聖書的源泉?――?神の自己提示/
  聖書的源泉(続き)?――?自己提示と異議申し立て
ひとつの聖書からもうひとつの聖書へ
 「私はある。私はあるという者」/神は愛である
愛と正義
  ? 愛の秩序/? 正義の論拠/? 愛と正義の弁証法
翻訳という範型

補論 リクール聖書解釈学とエキュメニズム(久米 博)

本 聖書論集は、一般解釈学や宗教哲学の分野で開拓的な業績を残したポール・リクールの、とくに聖書解釈に関する論考や説教を、久米博氏が3巻に編んだ日本独 自企画。20世紀フランスを代表する哲学者が、いかなる視点・方法から聖書を読んだかを如実に知ることができ、また、その敬虔なプロテスタント知識人とし ての側面を窺うことのできる好企画。

ボール・クール聖書論集 既刊
2.愛と正義
3.物語神学へ
別巻 死まで生き生きと
http://www.shinkyo-pb.com/2014/05/08/post-1194.php
 

 

愛と正義: ボール・リクール聖書論集2

愛と正義: ボール・リクール聖書論集2

 

 

 

物語神学へ (ポール・リクール聖書論集 3)

物語神学へ (ポール・リクール聖書論集 3)

 

 

 

死まで生き生きと―死と復活についての省察と断章 (ポール・リクール聖書論集)

死まで生き生きと―死と復活についての省察と断章 (ポール・リクール聖書論集)

 

 

キニャール理解のためにいつか読む、的に。

ポール・リクールキニャールのせんせいのひとりやん、みたいなきがしてなんなのだが、けっきょくどうしたって、そこに興味関心があるからしょーがないw

記憶・歴史・忘却 上下
http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-7885-0911-3.htm
 

 

記憶・歴史・忘却〈上〉

記憶・歴史・忘却〈上〉

 

 

記憶・歴史・忘却〈下〉

記憶・歴史・忘却〈下〉

 

 

時間と物語 全3巻 新装版
http://www.shin-yo-sha.co.jp/mokuroku/books/4-7885-0914-8.htm

 

時間と物語〈1〉物語と時間性の循環/歴史と物語

時間と物語〈1〉物語と時間性の循環/歴史と物語

 

 

時間と物語〈2〉フィクション物語における時間の統合形象化

時間と物語〈2〉フィクション物語における時間の統合形象化

 

 

時間と物語〈3〉物語られる時間

時間と物語〈3〉物語られる時間

 

 

 タグに、「愛っていったい何かしら?」をひさびさにつけてみた。

なんどかくりかえしているとおり、わたしはおはなしの主人公は総受けが望ましいと思っていて、『夢のように、おりてくるもの』はあいにく「総受け」具合は師匠に持っていかれたものの(師匠モエ燃えだったよねw)、主人公の黒髪君こと夢使いと「語り手」である茶髪くんはなんのかんのと相思相愛で、その他のおはなしもだいたいはそういう構造のものばかり書いてきているのですが、というか、そういうものが自他ともに「求められる」、かつおはなし自身によっても要請されている、その現状にこたえてしまっているだけなのかもしれないということなどを最近は考えている。それが「悪い」というはなしではなく。

『夢のように、おりてくるもの』はまさに、その「要求」に応答する形で書かれ、わたし自身も祈るような気持ちでつづってきた。と同時に、それがいわゆる「欲望のもたらすファンタジー」であり、己や他者を慰撫し慰藉するものとしてあることを否定することは出来ない、しない、というよりも、やはりそれは出来ない、という感じで。

『夢』とは、そも、そういうものであるので。

ただし、このおはなしのなかには「誰にも愛されない」と思いながら視界を去っていったひとたちがいて、またはそれに憤り自他をまとめて破壊していった人物もいて、さらには、それをこらえながら孤独に生きているひともいるはずで、本当なら、このはなしでそれらをきちんと描きこんでいくべきだったのだろうという反省は持っている。

だから、いつかちゃんと、そのひとたちを描けるようになりたいと、いま強く、願っている。