がらくた銀河

磯崎愛のブログです。本館は小説サイト「唐草銀河」。

個人的めも:イラストレーションと書くことその他

http://h.hatena.ne.jp/florentine/225694785021488093
〜かってにはんのう だけじゃなくなってた(笑)〜
 
美の支配者足りえるって思考、かなあ 
あとは「わかりやすさ」。
美や快楽が利用されやすいのは、それが文字通り人目をひき、訴えかける力が強いから
プラトンの時代からずっと抱えてる哲学的テーマなんだろうなあ(わたし哲学まともにどころかちっともやってないからこういう謂いは申し訳ないけど、ぷらとんはそういうことかいてたっていう記憶がある)
 
で、
いつでもこの、「わかりやすさ」というのがわたしの「敵」だと思ったりする
まあしかし、わかりにくいというのはすぐさま不安につながるし、そういう不安にひとはそうそう耐えられないものなのさ、ともじぶんを省みて&顧みておもう
だから、わかりやすさは敵だけど、敵を敵のままにしてほうっておくのもたぶん、違うことだ
 

哲学者は詐欺師となりうるが、言葉を愛好するものはそうはなりえない。文人は一個一個の言葉である。また、その固有の探求は、イメージのゆえに〔哲学よりも〕深い。
〔…〕哲学者が口にする論証は、言語のきしみ音でしかない。なぜなら、彼らはイメージを使わずに証明するから。
〔…〕修辞家はなにも証明(デモントレ)しない。ただ指示(モントレ)するだけであり、その指し示すものは、開け放たれた窓だ。フロントは言語が窓を開けるものだということを知っていた。なぜなら修辞(オラティオ)は、夜が昼をもたらすのと同じように、それぞれの時代にあって光をもたらすものだから。
パスカルキニャール『思弁的レトリック』第一考 フロント

 
思弁的レトリックはまだ翻訳されていない。訳者さんの『音楽への憎しみ』のあとがきからの掲載になる。
フロントについて、いちおわたしのブクマ ほとんど読んでないままw
http://b.hatena.ne.jp/florentine/%E3%83%95%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%83%88/
 
わたしの長年の疑問というか不満がこれをよんで払拭されたというか、
しょうがないのか、とようやく思えた
「なぜなら、彼らはイメージを使わずに証明するから」か、なるほど。
しかし、
イメージとはなんぞやってことになるのだが
まあそれは、その仕事はべつのひとがやっている 
 
もう少しいうと、これも

パスカルキニャール『舌の先まで出かかった名前』
「メドゥーサについての小論」から。
 
「わたしは書きたいから書くのではない、習慣によって書くのでも、意思によって書くのでも、仕事だから書くのでもない。わたしは生き延びるために書いてきた。口を閉ざして語ることのできる唯一の方法だから書いてきた」
「個人的に言えば、わたしが書くことを通じて求めているのは失神状態だ。書いているさなかに、わたし自身によってわたし自身を反省的に把握するあらゆる意識から離脱できる可能性だ。自分が不在だった時に至るまで離脱することだ。わたしが生成した場所へと離脱することだ。それは竈だ。あるいは謎だ」
「つまりは死ぬために一心不乱になってさかのぼる源だ。(略)書くこと、それは産卵することだ。(略)それがあの泡だ。アフロディテだ」
「書く人は光源(イリュミナシオン)を求めている」

http://h.hatena.ne.jp/florentine/189922511092759296

この背景にあるのは、つまり17世紀読まれたかっただか生まれたかっただかのキニャールにとっては、これを当然のこと読み取らないといけないはずで、

啓蒙思想
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%95%93%E8%92%99%E6%80%9D%E6%83%B3
 
(歴史的には18世紀が主流になるものではあるけれど、キニャールの基本的な態度は「理性」についての問題だとわたしは思うので)

「ラトロは理(ラティオ)と情(アフェクトゥス)はたがいに切り離すことができないと言い――正確を期すると《in ratione habere aliquem locum affectus》〔理にはその一部に情念が含まれている〕――また、理が先走ってしまったため、情はそれにぶらさがっているとも言い、最終的には「理にかなった思考はおそらく、より情の深いものから作られたものだ」とも言った。」
パスカルキニャール『アプロネニア・アウィティアの柘植の板』「理性」より抜粋。
http://h.hatena.ne.jp/florentine/189925920601547430


もうひとついうと、
これは、
この光源というのは、
写本装飾のことをさす、というところで、
やっと、じぶんの「問題」につながるのであった、まる
 
それは暗闇に在って光を求めることと似ている 
闇の中での思考だ
 
イラストレーション
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3
 
というかさあ
キニャールみたいなひとに(ほんとにほんとの教養人ですよ、もしくは最後のさいごの文人!)これやられたあとに、わたしに出来ることなんてないよとも思うけど、
幸いなことに、彼は「音」のひとだから
わたし、ほんの少しばかり気が楽なのだ
むろん「イメージ」の側にはヴァールブルクがいるわけで、でも、逆に言語の方面からの思索ではなくてももっとずっと絵画よりだし、
まあこのひとたちの仕事ぶりに叶わなくてもべつに誰も文句いわないってくらいちょーぜつ偉大なひとたちだから、わたしはわたしでやるしかないなあと
 
とまれ
みなが「美」にとりつかれたひとたちではある
美は、あがめるもの、じぶんを打ち砕くもの、ジュネのいう「傷」であるはずが、
そうは思わないひとがいるのだ
 
その差異を、隔たりを、距離を思う