がらくた銀河

磯崎愛のブログです。本館は小説サイト「唐草銀河」。

へへへと笑って「さよおなら!」

名は体をあらわすなどといいますが、この『がらくた銀河』、「へりくつ」カテゴリーなる記事が3つも並び、「におい」が芬々と漂いそうなブログです。やはりガラクタ、おもいっきし廃棄物とかゴミっぽい(笑)。ついでにお恥ずかしながらシモネタ(おといれ系)は嫌いじゃありませぬ。
そんなブログの本日のお題はこちら。
hebaさん(hebakudanさんのお姉さん)、moheji99さんの、このひとことです。

それにしても妹はどうしてこう「屁」が好きだったのか

 
前々回、hebakudanさんのお名前に敬意を表し、「屁」について語らせていただきました(花ちゃんと都ちゃんの「ボッティチェッリ画『神曲』素描地獄篇」漫談 その2(文字通り、シモネタですのでご注意を! 笑) - がらくた銀河 花ちゃんと都ちゃんの「ボッティチェッリ画『神曲』素描地獄篇」漫談 その2(文字通り、シモネタですのでご注意を! 笑) - がらくた銀河)。その手前、不肖ながらわたしめが、ガタクタ頭で考えてみました。よろしければ以下お付き合いくださいませ。


「屁爆弾」というお名前は、以前のブログのネーム設定時に「うっかり間違えたのだ」とおっしゃられていたそうです。そのままはてなでも使われたのですから思い入れがあったと見てもよいのではないでしょうか。
ところで、名前なんてただの「記号」、さほど気にせずテキトーにつけるというひとも世の中にはおいででしょう。けれど、hebakudanさんに限ってはそうとは思えません。言葉を選り抜いて使い分ける拘りの方であったのはご存知のとおりです。とすれば、やはりそこに単なる名づけ以外の深い意味を読み込むほうがそれらしいかと。
つまるところ、わたしも名前には断然コダワッチャウほうなのです。


そういう自分のIDは、フィレンツェ女性を意味するフランス語です。フィレンツェルネサンス藝術がお好きな方と仲良くなれたらいいなあというシタゴコロ込みの命名です。
そんな人間なものですから、hebakudanさんのことを、ダンテやマキアヴェッリ、はたまた詩人としても著名なロレンツォ・デ・メディチのように批評精神豊かにして諧謔味溢れ、何よりも藝術と自由を愛するフィレンツェ人みたいな方だなあと慕っておりました。天才彫刻家ドナテッロがよその町にいると褒められてばかりでダメになると、悪口雑言ひしめく祖国フィレンツェへ戻ってきてしまったように、藝術というものは厳しい批評あってこそ育まれると考えるのがフィレンツェ人!?
花の都に住む藝術家は、とっても辛口のような気がします(ここいらへん、塩野七生さんの『わが友マキアヴェッリ』や若桑みどり先生の『フィレンツェ』というそのものズバリな本もありますし、メアリー・マッカーシーの『フィレンツェの石』等に詳しいです。期せずして、みな女性!)

 
さて、話を戻しまして「屁」とはなんでしょうか。身体から排泄される物です。においは色々(?)、音はあるかもしれないしないかもしれない。ただし、「屁爆弾」となれば、きっと凄まじい大音量で強く印象に残るに違いありません。さりながら、それをこの目で見ることはかなわず、ひとの手を煩わせる間もなく自然に立ち消えるものです。
わたしには、身じまいの美しいhebakudanさんを思わせます。ご自身のブログを「削除したほうがいい」「邪魔になります」と語る声からは、ひとさまの妨げになってはならないという決然とした潔さを覚えますし、「きれいにひと拭きされたような気がする」という言葉には清廉なお人柄を強く感じます。

 
そのいっぽうで「屁」は出物腫れ物ところかまわず、それゆえにひとの緊張を解く、思わず笑ってしまうものではないでしょうか。
hebakudanさんの文章には、息を詰めて文字を読むときのあの独特のテンションを感じます。「息づかい」などと書くことが恥ずかしいと告白されている記事(「恥ずかしい」の研究・わが身の資料と雑感 - 血止め式 「恥ずかしい」の研究・わが身の資料と雑感 - 血止め式)を鑑みても、屁で息抜き(ガス抜き?)は穿ちすぎやもしれませんが、大きな誤りではないような気もします。


ところで、いまわたしは「屁爆弾」というお名前をひと続きで読んでみましたが、「屁」と「爆弾」ではどうなるでしょうか。双方とも音がする点は共通していますよね?(すかしっ屁はのぞきますよ 笑) くりかえしますが、前者はどんなに大きかろうとにおいが強烈であろうと、それなりに時間がたてば存在の痕跡を残さず、ただ記憶にとどまるのみ。後者の物騒さはこの場合ちょっと脇において、その影響の有無を問うています。爆弾のもつ破壊力には、何かの、誰かの存在の有り様を変化させる作用があるとも言えそうです。
そんなふうに考えていくと、わたしには、hebakudanさんのなかに異なる二つのお気持ちがあったのではないかと思われるのです。「去る者が去りゆく限りはどこまでも消え入り果て忘れられ果てたいとする」お気持ちと、「奥まで一杯一杯踏み込んでみたかった」という想いとが、そのお名前に渾然一体となってあらわれていたのではないかと。そういえば、いくつかの記事には「迷い」という単語も見られます。ひとのこころの襞をごく丁寧にそうっと撫でるような濃やかさと、迷いながら揺れながら考えつくしたうえの言動を引き受ける強さとが、「屁爆弾」という面白く少々過激なお名前に裏返しの形で共存していたように感じます。 
さらにもうひとつ、「屁」も「爆弾」も共に投下されるイメージ、下へ向かうものという印象があります。落ちるもの、または落とすものとしてある……。


いろいろナイ頭を振り絞って考えました結果、今のわたしにとってhebakudanさんのイメージは、
なんと、花火、なのです。
4月4日の記事(イチレツランパン破裂して - 血止め式 イチレツランパン破裂して - 血止め式)、桜の花が様々な意味とイメージで息をするたびに肺の内側をひたふるせいもあるのです。どうしてか、hebakudanさんの文章をよむと、鎖骨からした横隔膜のあたりに刺激がきます。そうして花と破裂が結びついたら、いつの間にか花火になった。空いっぱいに大きく広がり、ドーンとおなかの底に震えが来る、残響が身体全体を深く貫いて眼の裏に炎の花が咲き続ける……そういう存在です。

とはいえよりにもよって「花火」とは!
その強靭にして苛烈な美意識ゆえにご自身を「屁爆弾」と名づけた方へ向かって、これはとんだ失礼になるかなあと眉を顰めて真剣に考えました。
でも、hebakudanさんの類稀な批評眼を裏返し、さかしまの世界で見つめてみると、投下された悪臭は勢い馨しい花の姿をとって天空へと舞い上がるのです。
憎いぞこんにゃろ」と肘でつつかれたくて書いたわけじゃないですよ。わたしも物を書く人間です。いささか素直ではないところもありまして、物事をどうしようもなく「真っすぐ受け止め」る反面、書くときには表裏返し、横なり斜めなりから仔細に眺め、ぐるっとひとわたり離れてみてから記す程度にはかのひとの「薫陶」を受けているつもりです。
わたしは物語るひとで、言葉とイメージ(絵画)が大好きで、そのわたしに「ご自身の視点」で「正面からフル」に書いたものが読みたいとおっしゃったのですから、「勝手」にやらせてもらいます(こういうのを開き直りと申します!)*1
というわけで、恥ずかしげもなくみなさんにおうかがいしちゃいます。
hebakudanさんと花火、とっても合ってませんか?


もうしばらくhebakudanさんの『血止め式』は閲覧できるそうです。
あの「屁爆弾節」を多くのひとに読んでもらいたいと願うわたしにとっては、ブログをそのまま存続していただければ有り難いことです*2。けれど御遺言通りに閉じられても、その「言葉」はわたしのなかで生きています。わたしはもう、だいじょうぶ。
この一週間、hebakudanさんの言葉がたくさんのひとの心に花を咲かせているのを見ることができて、とてもこころ慰められました。また、わたしの知らなかったhebakudanさんを感じることができて嬉しかったです。わかる範囲でブックマークさせていただいたので、この先なんども読み返すことでしょう。
こうして「屁爆弾」さんのお名前について書き尽くしましたので、ようやくお別れが言えそうです。
「さよおなら!」


……。

それにしても、たいそう屁理屈を捏ねましたね。
こういうのを、

《屁たれ「ぶぅ」ログ》と言います。

おあとがカグワシイようで……へへへ☆



フィレンツェ―世界の都市と物語 (文春文庫)

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フィレンツェの石

フィレンツェの石

*1:真剣な話、たぶん、わたしのへっぴり腰を気にされてコメントで叱咤激励してくださったのだと思います

*2:[http://d.hatena.ne.jp/Projectitoh/:title=伊藤計劃:第弐位相]を読んで、わたしがとても勇気づけられたように……